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窓外からはちゅんちゅんと雀の鳴き声。ニュースを観ながらトーストを食べて、それでも時計はまだ7時半。こんな時間に起きてゆったりと用意するなんて、昔は考えられなかった。
「篠崎さんに拾ってもらってよかったな。私も、夜さんも」
私は独り言のように言いながら服を持って脱衣所に入り、就活の時からそのままのリクルートスーツに袖を通す。流石に猫とはいえ成人男性の姿になる人の前で着替えは無理だ。
ーー篠崎社長の会社に入社した私と夜さんは。
あのあと二週間みっちりと篠崎さんによる研修を受けた。とは言っても良くある社員研修のようなマナーや心得のようなものとは少し違った。
あやかしという「怪異」についての必要最低限の知識や身を守るための知識、あやかしに対するマナーや礼儀作法、会社理念や日々の業務の流れ、などなど……
「まあ、口であれこれ言うよりもまずは現場で慣れて、それから改めて研修するのが早いな」
篠崎社長はそんな言葉で研修を切り上げた。でも確かに篠崎社長の言葉は正しい。私はまだ、あやかしのことも、会社のことも何もわかっていない。わからないことが、わからない。
「早く慣れたいな」
言いながら、キスを思い出す。
「あーーーー……」
あれから研修でも仕事でも顔を合わせたけれど、彼はセクハラをしてくることもキスをすることも全くなく、意識しているのは私だけのようだった。
やはりあやかしの彼にとっては、私とキスするなんて大したことじゃないのだろう。むしろ尻尾を預けてくれると言うのは余程の親愛の証なのかもしれない。
「……まずは仕事を頑張らなきゃ」
鏡に向かってメイクをしながら、私は自然と口角が上がるのを感じていた。仕事に行くことが楽しいと思えるのは人生で初めてかもしれない。
私にできることがある。普通になろうと、無理に頑張らなくていい。
それだけでこんなに気持ちが軽くなるなんて思わなかった。
ーー頑張ろう。鏡の中の自分と見つめ合って頷く。
「ヨシッ!」
ヘアメイクを整えたところでふと隣を見ると、全裸の夜さん(人間の姿)がテレビを見ていた。
「ぎゃーーーー!!!!!!!」
「どうした、楓殿」
「人間! 服! 男子! 目のやり場!」
菊井楓(23)、彼氏いない歴史も23年。
そんな私がどうして、全裸美形の隣でメイクして「ヨシッ!」とか言ってるの。何もヨシじゃない。
カーテン越しの柔らかな朝の日差しを浴びた夜さんは、まるでグラビアピンナップみたいに非常に絵になる。絵になるのはいいから、とにかく、やめてほしい。
朝から如何とも言い難い状況に頭を抱える私の前で、夜さんはきょとんと首をかしげる。
「俺にとってはこの姿も猫の姿も同じ俺だから、気にしないで構わないが」
「夜さん。例えば私が人間のメスですけど、私が猫のメスだったら、どう思うんですか」
「……そうか。そういうものか」
「そう。そういうこと」
「しかし楓殿は人間の雌だから、関係ないのでは」
「ごめん、わかってなかったね」
夜さんが立ち上がるので「ギャッ」と叫んで顔を覆うと、その間に夜さんは猫になり、するりと私の横を抜け、器用にサッシを開いて窓から降りていった。
「また会社で、楓殿」
「……頼むから、人間の格好でマッパで外に出ないように気をつけてね……」
私は朝からぐったりと疲労を覚えながら、簡単に片付けてテレビを消す。
「そうよね。夜さんもあんな感じだし、篠崎さんも私に対して、そんなもんよね」
玄関でパンプスを履き、そして8畳一間の部屋を振り返った。
「……」
部屋を振り返って、私は胸がじんとする。生まれて初めての、一人暮らし。
「いってきます」
誰もいない部屋に笑顔で挨拶し、私はドアを閉めた。
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