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何か知っているのかもしれないと思う。社会人になって下の名前で呼ばれるのってなんかくすぐったいけど、篠崎さんに下の名前で呼ばれるのは、嫌いじゃないから受け入れている。
「……」
「ん? どうしたの、楓ちゃん」
羽犬塚さんが黒柴の黒黒とした、犬(ひと)の良さそうな顔で首を傾げてくる。私は慌てて首を振る。
「いえ。……霊力が溢れてた時は、なんとなく色々視えすぎていたんだなって実感しちゃって」
「視えすぎていたの?」
「はい。例えば……なんとなく掛け時計の電池残量後二週間分くらいだなーとか。昨日寺社仏閣に行って来たんだろうなとか。トナーの残量とか」
「えっ! すごいわ!! それ、事務の才能すごいじゃない!!!」
尻尾をぱたぱたしてはしゃぐ羽犬塚さん。私は肩をすくめる。
「見えちゃいけないことも見えちゃうんですよ。聞かされてない人の秘密もなんとなく気づいたりして、それで周りに気持ち悪がられたり」
「それは大変ねえ。でもまあ、それくらい普通よ普通!」
「普通ですかね!?」
「私だって結構長生きだけど、そういう人たくさん見てきたわよ〜。大丈夫よ」
なんだかそう言ってもらえると落ち着く。ほっとしたところで、外のモップがけに出ていた夜がオフィスに入ってきた。
「あ、いけない」
私はタイムカードを打刻してジャケットをハンガーに吊し、袖を捲りながらカバンを机に下ろす。
「机拭き、やりますね!」
「助かるわー」
羽犬塚さんは色っぽい大人の女性の声と、見た目の可愛い柴犬っぷりがなんとも言えないあやかしだ。彼女はこの会社の一番の古株で、篠崎さんとは長い付き合いらしい。
篠崎さんの机の横にコロコロが吊るしてあるのを見つけて、思わず頬が緩んでしまう。ああ、この職場絶対必要よね……換毛期、すごそう。
「篠崎さん……」
背が高くて眉目秀麗。柄が悪い風貌さえも美貌の彩りに変えてしまう美男子の篠崎さん。そんな彼も、耳はふかふか、尻尾ももふもふ。
「なんだか実家の犬を思い出すなあ……」
「何が犬だって?」
「ひゃっ」
篠崎さんが後ろから声をかけてきて、私は思わず声を裏返す。篠崎さんのジャケットからは、今日も相変わらずもふもふっと尻尾が揺れている。つい目を奪われる。
「おはようございます、篠崎さん」
「なあんだよ。俺の尻尾の毛がそんなに気になるか?」
ぱたぱた。誘うように尻尾を揺らしながら篠崎さんはわざとらしく色っぽく目をすがめる。
「すけべ」
「す、すけべってなんですか! 篠崎さんこそ」
「「篠崎さんこそ?」」
夜さんと羽犬塚さんがこちらをじっと見る。はっと我に帰ったところで、篠崎さんがぱんぱんと手を叩く。
「ほら、朝礼だ」
彼にとってはやっぱり、キスは治安保持と食事の意味でしかないのだろう。
しっぽより軽い、私のファーストキス……ううん、仕事だ仕事。
私も気持ちを切り替えた。
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