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【糸島編】8.霊狐と礒女。心を『此方』に繋ぎ止める、もの。
事務所3階の応接室。
俺は彼女の前でノートPCを開き、確認事項を交えながら入職手続きを進めていた。
目の前には顧客の磯女ーー雫紅がソファーに浅く座り、気遣わしげな様子で、奥のソファーに寝そべる菊井楓の姿を見守っている。
「彼女、大丈夫ですか?」
雫紅は両手でアイスコーヒーを淹れたグラスを傾けながら言う。一階のカフェから用意してもらった自家焙煎のものだ。俺は笑顔を作って肩をすくめた。
「問題ありません。元々霊力だだ漏れで生活していたくらいには霊力耐性がある社員です。しばらくしたら起きてきますよ」
「それなら、いいんですが……」
夕日の差し込むオフィスに、カチャカチャと俺がキーボードを叩く音が響く。
しばらく俺の手元を見ていた雫紅が、おずおずと話を切り出した。
「……あの。彼女から、私の働きたい理由、聞きましたよね?」
顔をあげれば、若い磯女は顔を真っ赤にしてもじもじとしている。
「その人間の男性にハマるなんて、磯女としても年齢としても恥ずかしくて……身内にも言えなかったんです……」
「大丈夫です。現代では、よくある話ですよ」
俺はにっこりと営業スマイルで笑う。
「歌に耳が肥えた海のあやかしの磯女の雫紅さんが、異種族の、しかも若者の演技に素直に感銘できるというのは素晴らしいことだと存じます」
「そう、でしょうか……」
「ええ。それに人間界だって70歳の女性が若い青年の魅せる才能に生きる活力を得るのはよくある話です。音楽にしろ、スポーツにしろ」
「よくある話、ですか」
「ええ。『普通』ですよ」
「普通……」
彼女は『普通』の言葉を噛み締めるように復唱し、静かにコーヒーを飲み干す。
「私、変化が怖かったんです。ずっと静かだった芥屋の海が、人間の世界で『糸島市』になってから、色んな新しいことが始まって。音楽祭も始まったり、人の流れも変わったり。今ではすごく賑やかで……磯女のみんなも、人間の皆さんと一緒にイベントをするようになって。それまで……人間なんて、食べたことしかなかったのに」
聞かなかったことにしておこう。
俺は営業スマイルを貼り付けたまま、気持ちを吐露する彼女の言葉に耳を傾ける。
「私、まだ若いのに時代の変化についていけてなかったんです。でも推しができてからは」
推し。その言葉を呟いた途端、彼女の目元がキラキラと輝く。
「世の中が変わってるんだから、私も、推し活の為に勇気出して変わっていこうって。前向きになれたんです。だから一度、慣れた海を飛び出したくて。福岡市内の職場なら博多湾から糸島に帰りやすいし、心細くなったら皆の元に帰ればいいですしね」
「素敵なことだと思います」
彼女の瞳は輝いている。
推しへの熱意と、新しい人生へ向けた期待で張り切った様子は眩しいくらいだ。
俺は霊狐として『此方』に生を受けて、既に400年程度は経っている。あやかしの世話をするようになって350年ほどだ。
何年、何百年生きても。
こうして『此方』に期待して生きるあやかしの顔を見ると、己の仕事に充実した感情が湧いてくる。
どんなに、あやかしに生きにくい時代になった現代でも、『此方』に生きる意味を見出し、生きたいと欲するあやかしは存在する。
あやかしの力でいられる間は、俺はまだ『此方』にいてもいい猶予を与えられているような気持ちになるーー
「ところで、篠崎さん」
目の前の雫紅(しずく)が話しかけてくる。
顔を見れば、彼女の顔は真顔になっていた。瞳が赤い。わずかに本性の姿がはみ出している。
俺は平静を装って首を傾げてみせる。
「はい。何か、気になることがございましたか?」
「彼女は、本当は一体何者なんですか?」
「弊社の従業員ですが」
「いえ。魂の話です」
俺は返事をしない。彼女は双眸を赤く光らせたまま、俺から目を逸らそうとしない。
おずおずとした雫紅としての顔ではなく、磯女の眼差しだった。
「彼女、不思議ですよね。行き当たりばったりで霊力を吸い取ろうとして成功したり、霊力を吸い尽くしても意識を失う程度だったり。それに、あの唇」
礒女の本性の姿を現した雫紅は、音もなくテーブルに身を乗り出していた。
ほっそりとした足元がゆらゆらと消えて、長く伸びた髪が黒々とした蛸足のごとく蠢いている。
ーー男を絡めとり海に引き摺り込む、礒のあやかしの本性。
楓の味を思い出すように、ぺろり、と彼女は赤い唇を舐めた。
「彼女、霊狐霊狐の味がしました」
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