挿話・四〇〇年の約束

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 己のきらきらとした狐耳と尻尾、それによく似た稲穂を眺める狐の元に、一人の女が近づいてきた。  質素ながら小綺麗に整えられた小袖を着た彼女は、誾千代姫の侍女であり霊狐の主人の某巫女だった。 「来てくれて有難うな」 「……紫野……」  もう既に、雄狐が何を言うのかは判っているのだろう。  苦しい感情が既に、彼女の眉間と目元に滲んでいた。 「俺は筑前……博多に帰るよ」 「ッ……!」 「これ以上、姫の迷惑になりたくない」 「……そう、なのね……」 「なあ。お前も一緒に来ないか」  雄狐の強い眼差しに、侍女の瞳が大きく見開いてーーそして揺れる。 「姫に暇乞いを出して、一緒に博多に行こう。共に商いをして、人の夫婦のように暮らさないか?」  狐は口に出したあと、きゅっと口を真一文字に結ぶ。汗ばむ手を拳に握り、じっと愛する女の答えを待つ。  狐と侍女は、主従であり恋仲だった。  二人をよく知る人々は、似合いの男女と持て囃していた。  主である誾千代姫も黙認して見守るほど、二人は既に『巫女』と『霊狐』を超えた関係だった。 「……ごめんなさい。紫野」  夕日が僅かに陰る程の時間をかけて、侍女は狐に別れの言葉を告げた。 「私も紫野と離れたくないよ。夫婦になりたい。でも……私を拾って育ててくださった立花への御恩に報いる為にも、誾千代姫が笑って暮らせるようになるまで……私は、姫の傍にいたい」 「……俺は一緒に暮らせない。それでも、ここに残るか」 「判ってる。判っているけれど……」  侍女は胸をぎゅっと掴み、苦しげに唇を噛み締めた。 「それが私の勤めだから」  狐は己の告白を深く後悔した。愛しい女を苦しませるのは、狐の本意ではなかった。 「そりゃそうだ。姫様は今、心細くいらっしゃるからな。父の思い出が残る城を手放してしまったし、頼れる夫も傍にいない。そんな姫様から……幼馴染の侍女を奪うわけにはいかない」 「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい。紫野」 「謝るな。俺が無理を言ったんだ」  狐は胸の痛みを抑え、鷹揚に笑顔で尻尾を揺らす。 「俺は博多に行くよ。あっちは戦の爪痕がまだまだ深くて、子供の頃のお前みたいな、寂しい思いをしている奴がたくさんいる。俺はそいつらを助けて世話して、暮らしていくよ」 「……紫野……」 「お前が姫の事を見守ってくれるなら、俺も安心して博多に帰れるから。だから泣くなよ」  愛しい女の涙を拭いたい衝動を堪えて、狐は強がりの笑みを浮かべる。  今にも沈もうとする夕日に照らされる、愛しい連れ合いの顔を、目に焼き付ける。 「ねえ、紫野」 「ん?」 「もし。……もし、だよ? 姫様のご体調が治って、ややこがお生まれになったりして、姫様が昔のように笑顔でいられるようになった時……私は博多に、紫野に会いに行きたい。その時、私がどれくらい年取ってるかわからないけれど……夫婦になれなくてもいいから。会ってくれる?」 「勿論。当然だろ」  狐は全身が喜びに総毛立つのを感じる。待っていれば、いつか一緒になれるのならば何十年でも待てる。 「幾つになろうが、落ち着いたら絶対博多に来いよ。俺はいつまでも待ってるから」 「私は人間だから、すぐにおばあちゃんになっちゃうけど……」 「ばぁか。魂で人を見分ける狐の俺には、お前が年取ろうが婆になろうが、お前以外の何者にも見えないんだよ」 「ありがとう」  顔をあげて笑う彼女が可愛くて、狐はたまらず駆け寄り、力いっぱい、愛しい連れ合いを抱きしめた。 「待って、私、汗臭いから、」 「狐の嗅覚じゃ、風呂上がりだろうが対して変わらねえよ」 「……恥ずかしいのは私の方なんだけど……」  紫野は抱きしめた女の髪に鼻を埋め、深く息を吸い込んだ。  一日中、一生懸命外で働いた彼女は太陽の匂いがする。薬草の強い香りが染み付いた髪も、草の色が染み、ささくれ立った指先も、砂埃でざらついた頬も、柔らかな体も全部、今宵から全て過去のものになる。  紫野は瞳を閉じて、強く抱きしめ、彼女の魂の形を体に刻みつけた。  主従の印より深く記憶して、彼女のいない年月を生きるための縁とするために。 「全部終わったら、夫婦になってくれ」  胸板に押し付けられた彼女の頭が、こくん、と頷くのを感じた。  着物の袂がじわりと熱い。彼女の涙が染みて、きっと酷いことになっている。  それすらも紫野は幸せだった。 「お前がいくつになろうが、元気で笑って帰ってきてくれるまで、俺は絶対、ずっと待ってるからな」
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