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「最終面接で一発で、隠し社訓を当てちまったんだよ」
「えっ……あの、社長が無茶振りしてくるあれをですか?」
「ああ。ノーヒントで一発で」
「うわ……何それ。そこまで勘がいいと逆に怖いっすね」
「だろ? やっぱ『霊感女』は違うわ」
ーー二人は気づいていないが、菊井が社長の隠し社訓を当てたのは勘ではなかった。
最終面接が行われた社長室の棚、古今東西のビジネス書が並んでいる中で一際目立つ場所に論語が置かれていたこと。
そして表向きの社訓が「努力は裏切らない」だったこと。
そしてトイレに掛けてあった掛け軸の内容を思い出し、彼女は見事、
「もしかして論語の……『不患無位、患所以立』ですか?」
隠し社訓を言い当てたのだ。
経験を重ねた経営者というものは往々にして自分の考えをアピールしたいもの。彼女は社内に散りばめられていた社長の自己主張を、『なんとなく』で無自覚に情報収集し、そこから答えを導き出していたのだ。
ーー論語の内容まで思い出せたのは、『霊感女』所以かもしれないが。
「でも変な新人だったとしても、ちゃんと仕事ができる新人だったんだな、今思うと」
「菊井さんが言ってた通り社用車、ブレーキおかしくなってましたしね」
「もっと優しくしとけばよかったなー」
「ですね〜。あーあ、早く次の事務員入ってこないかなー」
二人はいつものように日替わり定食を無言でがっつき、そして会社に戻りたくねえなー、と言葉に出さずに考えていた。
菊井は業務の中で分厚い引き継ぎ資料を作りながら、退職したいとずっと願い続けてきていた。
そしてある日を境にとんとん拍子に退職手続きが進み、有給を全て消化した上でスッキリと退職してしまった。
噂では彼女を気に入っていた太口の顧客が、円満に辞めさせるよう労基を匂わせながら電話してきたらしい。
その後。
彼女は新しく雇った事務に引き継ぎをしていたが、なんと彼女が辞めた数日後にその新人も辞めてしまった。実に賢明な判断だ。
普通、あれだけ任されたらヤバいと思って逃げるに決まってる。
「まあ、菊井さんが辞めて良かったこともありますよね」
「ああ、主任な」
「ええ」
二人は食後の茶を飲みながら苦笑いする。
「主任、いきなり逃亡するとは思いませんでしたよ。普通バイトでもあの辞め方しなくないですか?」
「俺たちにとってはまあ、良かったことじゃねえか。いっつもマウント取ってきて面倒だったし」
「毎年新卒の女の子いびってましたしね。菊井さん辞めた後も事務職いじめて、流石にその時は社長に注意されてましたね」
「注意が遅いっつーの」
「もういなくなっちゃいましたしね」
「あの人、今頃どこで何してんだろうな……」
「実家が社長の親戚で、どっかの旧家なんでしょ? なら生きてんじゃないですか?」
「憎まれっ子世に憚るってなー」
「俺も太い実家か才能が欲しいなー」
だべりながら二人は、こっそりとスマホに登録した求人情報サイトを眺めているのだった。
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