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「篠崎さん、どうしたんですか」
むせる背中を摩ると、生理的な涙を浮かべた目でじろりと睨まれる。
「なんでンな言葉知ってんだ、お前が。このあいだ世界史専攻つってただろ」
「あ、いやあ」
私は頭を掻く。
「昔学祭で友達のサークルがラップバトル川中島って舞台をやった時、私、武田軍に仕えるくのいちの役をしたもので」
「脚本担当趣味出し過ぎだろ」
「で、くのいちが普段は歩き巫女をやってる設定だったんですよね。だから覚えてたんです。確か神社にいる巫女さんと違って、流しの巫女さんみたいな人たちですよね?」
「……………」
「間違ってました?」
「……間違ってねえよ……」
私の言葉に、篠崎さんは眉間に皺を寄せてすごい顔をしている。
怒っているのか引いているのかわからないけれど、とにかく何かを踏んだらしい。
そういえば。
篠崎さんは400年を生きた狐さんだ。
武田信玄もそのくらいの時代の人じゃなかったっけ。もしかして当時、歩き巫女さんに会ったことがあるのかな。
「まあいい、問題は大将の話だ」
ごほん、と咳払いし、篠崎さんは私から川副さんへと目を向ける。
「通り魔巫女ってなんだ、通り魔が出てることは知ってるが」
「それが、通り魔がどうも巫女らしいんだよね」
「待ってください。通り魔が出てるなんて、ニュースでやってましたっけ?」
私がフォローしている治安情報botでもローカルニュースでも、通り魔の話題は見覚えがない。
「やってないさ」
慌てる私に説明してくれたのは篠崎さんだ。
「通り魔と言っても、あやかし相手の通り魔だからニュースにも出ねえよ」
「こ、怖いですね……。警察に通報はされてるんですか?」
「あのな、楓」
篠崎さんは肩をすくめる。
「あやかしはマイナンバーも戸籍もねえ。んな奴のために公的機関が動いてくれるかよ」
「えっ…あ、でも警察が動いてくれないのなら、公務員さんとかはどうなんですか?」
「前も言っただろ。あやかしは何かと宗教にまつわる存在も多いから、迂闊に公務員も手を出せないんだ」
「ひえ……」
「この街は『天神様のお膝元』ってな。強靭な霊力が満ちている場所なだけに、あやかしの自治組織もしっかりしている。だからここで悪さをやらかす奴は滅多にいないんだが……」
私はゾッとしてしまう。
通り巫女という話の恐ろしさも。そして、普通の人のように暮らしていながら、彼らが「普通」の社会とは別の軸で生きているのだということにも。
「そうだ、楓」
篠崎さんが思い出したように声をかけてくる。
「お前も護身用にそろそろ霊力の使い方を教えてやる」
「私あやかしじゃないですよ?」
「ばか。あやかしより胡散臭いんだよお前は。一般社会人のくせにそこまで霊力ダダ漏れなのは」
川副さんが私を見る。
「そういえば楓ちゃん、最初の日ほどはダダ漏れじゃなくなったんだね」
「ええ、まあ」
「処置してもらえてよかったねえ。おじさんも心配だったからね」
「はは……」
私はちらりと、篠崎さんがおあげを食べる口元をみる。
唇を美味しそうに舐めとる舌の動きに、動悸がして急いで目を逸らす。
うう、見れない。
最初の日から私はまだ、二度目のキ……霊力を吸ってもらうことを、されていない。篠崎さん曰く、まだ吸い上げるまでには溜まってないらしい。
いつかまたキスされる予告だけされて、平然とした顔で普段から並んで仕事をしたり、こうしてうどんを一緒に食べに行くことが、なんだか動揺してしまう。
こんなことならば、もっと大学時代に彼氏作ったりしておけばよかった。友達の恋愛相談ばっかり聞いていたから……。
ーーー
うどんの帰り道、篠崎さんと一緒に歩いていると私はふと、あることに気づいた。
「そう言えば篠崎さん」
「なんだ?」
「篠崎さん、霊力を「あげる」のは、契約なしにしたら危ないって仰いましたよね」
大濠公園で、夜さんに霊力をあげようとした時だ。
「それがどうした」
「篠崎さん、主従契約なしに私から霊力を……す、吸ったじゃないですか。あれって危なくないんですか」
「なんだ、そんなことか」
篠崎さんは綺麗な金色の目を細めて笑う。夕方の少し涼しい風に髪がサラサラと揺れてゾクッとする。
「四百年の狐舐めんな。多少うまそうな魂があろうが理性を保てる」
「おあげ食べるとき尻尾ぱたぱたしてる人に理性とか言われても」
「……」
篠崎さんは尻尾を掴み、無言で大股で先を進む。
ーー誤魔化したな。
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