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京料理と、をんな
薔子を探していたときは、焦っていたため、周囲の風景を楽しむ余裕はなかったが、こうして気持ちに余裕が出来、他に急かすものもなくゆっくりと降りてみると、大山は本当にうつくしかった。
雨露に濡れた冬枯れの葉が、白い朝陽を受けてきらめき、ぬかるんだ土に落ちるしずくは、ぴちょん、ぴちょんとあいらしい音を奏でる。段になっている坂を下ると、赤や白の花弁の椿が、つややかな深い緑の葉を持って凛とした空気の中、咲いていた。気のせいか空気も澄んだ匂いに変わっている。雨が微量な荒い匂いまでも洗ったのだ。
吾涼はそれを見て微笑む。
彼の頭の中で、野生の椿たちと、辻本家で吾涼が日々手入れしている椿が重なる。
(はよう屋敷に帰って、あいつらの手入れせなな)
冬のつめたい空気が、何故だか今は心地よかった。それは、彼の中に溜まった熱を、鎮めてくれているからだろうか。背負った薔子は、寝た時に何度も抱き上げたことがあるから、軽いことはわかっていたが、それでも確かに、彼女の命の重みが、背中に感じられる。それは彼の心を、甘く、むずがゆくさせるには、十分な刺激であった。歩くたびに、両手で押さえた位置にある薔子の帯のちぢれた素材が、かすかに彼のてのひらを揺らす。
ようやく山を降りたのは、昼を少し過ぎた頃であった。
蒼い水が広がる上にほどこされた橋を渡り、近くの村々を過ぎた辺りで、薔子がもう降ろしてくれ。自分で歩けると言い出した。なので吾涼はゆっくりと屈むと、薔子を背から下ろした。
京都駅にたどり着く途中で、ふたりの腹が鳴った。
薔子は片手を己の腹に置き、恥ずかしそうに瞳を伏せる。
吾涼はそれを真顔で見ていた。
「腹すいたんやろ」
「へ、へえ。まあ……」
「……なんか食いにいこか」
「す、すんまへん」
申し訳なさそうに萎縮する薔子から視線を逸らし、吾涼は斜め上を見る。そして周囲を見渡す。そういえば京都駅でゆっくり食事をしたり、買い物をしたりしたことは久しくなかったように思う。休暇申請を屋敷にはしてあったので、まだ時間には余裕があった。
「お前、なんか食いたいもんあるか」
「え?」
「……そういや、お前も京都駅でちゃんとめし食ったことないんやないか」
薔子はそう言われて顎に手を当てる。
「……そういやそうやな……」
そのさまが、なんだか可愛らしく思えてしまい、吾涼はゆるく口角を上げた。
基本的にだが、辻本家では和食しか出ない。
華族の人間は、時々外食もしていたようだが、その時には洋食も食べていたのだろうか。オムライスやカツレツ、ビフテキなど、幼い頃は手の届かない、はなやかな洋食の世界にあこがれを抱いたものだった。だが、大人になって給金で京都の洋食屋でオムライスを食べた時、確かにその濃厚な美味さに舌鼓を打ったが、後日、肉豆腐を食べ、やはり自分には和食の方が体に馴染むとしみじみ思ったものだ。舌を焼くようなほくほくとした豆腐の熱さと、出汁の染みた牛肉の風味が、驚くほど美味しかった。肉豆腐は今まで何度も食べたことがあるはずだった。だが、それでも、はじめて食べた時のような甘辛さで、なつかしいうまさが、口いっぱいに染み渡ったのだ。
薔子はやはり華やかな見た目と相まって、洋食が食べたいだろうか、と考え、彼女のこたえを待った。
顔を上げて、こちらを若干上目遣いで見る薔子の眸はわずかに潤んでおり、吾涼は動きを止めた。
「ーー肉豆腐」
思いがけない応えに、吾涼は瞳を見開く。「肉豆腐が食べとおす」
「……ほんまにそれでええんか」
そう聞くと、薔子は恥ずかしそうにくちびるを引き結び、視線を逸らす。
「へえ」
吾涼はしばらく呆然としていたが、やがて頭を掻いてかるく鼻を鳴らす。
そして薔子の手を取ると、一度びくりと震える彼女を余所に、商店街のほうへ歩き出す。
背後から、薔子の湿った足袋がコンクリートの地をつっかえつっかえ歩いてゆく足音が聞こえる。
商店街を昼からゆっくりと歩くことは久しかった。
京都は伝統の味を守るという風習があるため、ふるくから土地に根付いている料理がいくつかある。
黒豆、たけのこの木の芽和え、唐辛子とじゃこの炊いたん、千枚漬け、賀茂なすの田楽、はもの焼き物、しば漬け、どれも風味豊かで美味しい。
好き嫌いのない吾涼は、幼い頃の貧乏のせいもあり、基本的に出されたものはなんでも食べ、手先が器用なので、料理もうまかった。そのため、ほぼ外食はしたことがない。
たまに百合子にせがまれて休日に彼女のお付きとして、彼女が行きたがった京都の老舗料亭、「平八茶屋」や「菊乃井」に行ったことがある。そのことを思い出し、なつかしさで目を細めた。普段はお嬢様然としてなるべく外では品の良い姿でいようと努めている百合子が、そのときばかりは幼な子のように目の前に出されたばら寿司やへしこ、ふろふき大根、そして肉豆腐にぱくつき、ふうふう息を吹きながら、豆腐の熱を冷ましていた。頬をあかくして笑顔で頬を食べ物でいっぱいにする百合子は愛らしくも可笑しく、耐え切れずに吾涼はその場で吹き出してしまった。
自然と吾涼の口角はほのかに上がっていた。百合子のことを思い出すと、あたたかな気持ちになる。それはもう戀とは違うという自覚が自分の中で生まれていたが、名前をつけるとするならば、家族愛だった。
(あんひとは、俺の姉のような存在やった)
亡き百合子に感謝を述べると共に、吾涼は薔子の手を引いて、小さな料理屋の中へ入った。
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