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男ひとりと女ひとり
老舗の黒瓦の立派な屋根のついた料理屋に挟まれた狭い路地の奥に、そのふるびた小さな料理屋はあった。
戸口が狭すぎて人ひとり入るのも不安になるほどである。ほこりのついた戸口を腕に力を込めて横に押すと、途中で不自然につっかえたりもしながら、がらり、と不気味な音を立てて戸は開いた。
吾涼は眉を寄せて中へ入った。上に所々にしみのついた浅葱色の暖簾がつけられていたことに気づいたのは、頭に触れる感覚があったからだった。
背を向けた店主が、ぎいぎい、という音を立てながら何かを行なっている。
(包丁研いどんのか)
そのことに気づいた時、何故だか心にかすかに生まれていた不安な気持ちが消え、安堵して薔子の手を離した。
「ん……お客さんかい」
店主はしばらく包丁を研ぎ続けていたが、吾涼が一歩店の中を進んだそのわずかな音で彼らの存在に気付き、ぴくりと体を動かすと、ゆったりとした速度で後ろを振り返った。中途半端に切っていない髭は、黒よりも白いものが多く、手入れもされていなかったので、ごわごわと顎を覆っていた。小さな目は落ち窪み、眉毛が失われた皺眉筋に覆われていた。
かわいた浅黒い肌を、かすかに動かし、うすく口を開くと、欠けた前歯が見えた。
思いがけないその白さに、吾涼は驚き、自然と表情筋が動いて、こちらも店主にほほえみを返した。
「男ひとりと女ひとりか。何食いたい」
しわがれた声で店主がたずねたのと同時に、背後できゅうと腹の鳴る音がした。
振り返ると、薔子が片手でくちを押さえ、目尻と頬を赤くしてうつむいている。
吾涼は再び店主に向き直ると、「肉豆腐ふたつ」と指を二本立ててかるい口調で告げた。
すると店主は「あいよ」と低くつぶやくと、踵を返して奥から豆腐と牛肉を取り出し、調理を開始した。
店主が葉野菜を切るトントン、という小君良いリズムが響く。
カウンターに座った吾涼と薔子は、しばらく会話もなく黙っていた。だが薔子が重ねた両手の上に置いた顎をかるく動かしておろすと、吾涼は彼女がためらって話せないのを、くちびるの動きで感じ、自ら会話を切り出した。
「こういう店、来たことあるんか」
「え? いやぁ、ないです」
「そうか。俺は、んー。寅吉のやろうと横手さんと一回飲みに行った時に、ここやないけどこういう店には来たことはあるな」
会話をしながら、自分でも忘れていた、こまやかな記憶を思い出す。
(そういえば薔子とはこない外で飲みに行ったこと無かったな)
屋敷の女中たちとは、昔から共に働いている気心の知れた者もいるので、時々共に同僚として飲みに行ったことはあったが、薔子とは何故か無かった。その理由を考え、吾涼はふとした事実に思い至り、ゆるく瞳を見開いた。
(俺が、こいつのこと意識しとったからなんかもしれんな)
「吾涼さん、どないしたん? 頬が赤ぁなっとりますで」
「は? ……なんでもないわ」
不思議そうに自分をじっと見つめる薔子にそう言われ、吾涼は照れて、彼女から顔を逆の向きに逸らした。
薔子は彼の方を向いたままかるく小首を傾げていると、店主が何も言わずに音を立てて彼らの目の前に湯呑みを置いた。
強い力で置いたため、茶のうすい緑のしずくが跳ね、薔子は口をへの字にしたが、店主は無表情でまた厨房へと帰っていった。
文句のひとつでも言ってやろう、と薔子がカウンターのテーブルに手を付き、かるく腰を上げたとき、ふわりと店主の手元からよい匂いが漂ってくる。
(肉豆腐……)
それは、彼女が好きな甘辛いまろやかな匂いだった。
白い湯気が機関車の水蒸気のように立っている鍋から、木製の使いふるされたおたまで、中の汁を一杯掬うと、しろい陶器の椀の中へと入れる。
熱をうつされた腕は、ゆらめく湯気を纏い、それに包まれて、肉豆腐の香ばしいよい香りが薔子の鼻のさきへと漂ってくる。
薔子は、ほうと息を漏らした。
「美味しそうやなぁ」
そう言うと、店主はご機嫌に、にかっと笑った。
欠けた歯が気持ちいいくらいによく見える。
「味も美味しいで」
「ほんまですか。楽しみや」
白兎のつるりとした陶器の箸置きから、端に金の色が塗られている漆の箸をそっと手に取ると、微笑んで吾涼の方を見る。
「ほら、吾涼さんも」
「……ああ」
吾涼も寄せていた眉をゆるめ、箸を手に取ると、丁寧に両手を合わせて「いただきます」の姿勢をとった。
互いに黙して、店主の作ってくれた肉豆腐を食べる。数分口の中で味わっていたが、先に薔子の方が、はあとため息をつくように口を開いた。
「美味い……」
上品に手をくちもとに当てて、ゆっくりと口の中の肉豆腐を味わう。
吾涼もこの店の肉豆腐の味には感嘆していた。
(確かに、今まで食べたもんの中でいっちゃん美味いな)
丁寧に咀嚼しながら、視線をわずかに上向ける。口の中で噛む豆腐は木綿で、熱いが、慣れてくると温度が馴染んでいき、ほろほろとほどけてゆく。
(肉もよう煮込まれとる)
食感のしっかりとした牛すじ肉は、甘辛い汁の味が染み込み、確かな美味さを持って口の中に広がっていく。
ちいさい店と侮るなかれ。京都にはこういった名店が、数多くあるのだということを、再確認させられた。
「吾涼さん」
「ん? なんや」
「ひとみが、きらきら輝いとる。夏の日のラムネみたいや」
薔子の方を子供のような気の抜けた顔で見ると、薔子はその細いひとさしゆびの先を、自分に向けていた。
「なんや、その例え」
そう言って背を向けていた店主が、耐えきれずに、笑い声を吹き出したのは、数秒遅れてからであった。
そのまま店主と話し込み、気付けば夕方頃になっていた。最初は無口だと思っていた店主は、打ちとければ、あれよあれよと話題を提供する話上手であった。それも、この店がふるくから続いている所以に繋がっているのかもしれない。
久々に辻本家と関係のない者と話すのは、吾涼にとっても薔子にとっても楽しかった。最近の鬱々とした屋敷の雰囲気から、からりと晴れたあたたかな場所での食事や、気さくな店主と話すことで、彼らの中にあった、彼らでも気づかなかった澱が、静かに溶けていった。
店主は小窓から差し込むひかりが橙に変わっていることに気づく。
「お前ら、これからどないするんや」
「ああ、これから住み込みで働いとる職場に帰ります」
「なんや。勝手に夫婦かと勘違いしとったで」
「なっ……」
薔子はうつむいて、頬をさっと濃いさくら色に染める。
店主は薔子を一瞥したが、気にしていない素振りで、ふたたび会話を続けた。
「上空いとるで」
「上……?」
「ん。上」
店主はそのまま顎を上げると、天井に顔を向ける。紺のバンダナからはみ出た白銀に所々黒が混じった髪が、はらりとうなじに広がる。
どうやら、この店の二階のことを指しているらしい。吾涼は「二階……」と呟き、切長の目をすがめた。そして、カウンターの下で、薔子の片手の上に、己の渇いた手を重ねる。
吾涼が薔子の上で、確かめるようにおやゆびとひとさしゆびを動かした。きめこまやかなで、なめらかな陶器のような薔子の手。薔子は、それで彼の心のすべてを悟った。開いていた手を、ゆるくこぶしの形にすると、彼の手が、包み込むように上で広がる。そのてのひらの熱を感じて、自分の手は、存外ちいさかったのだな、と薔子は思うのであった。
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