勇気はめぐる

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 それは突然だった。  自宅のアパートは、あと数メートル。  三連休最後の祝日、夕方。  私は、スーパーで買った食材が詰まったリュックを背負い、歩いていた。 「あなたのサイフじゃありませんか?」  振り返ると、男の人が立っていた。  手に、黒い長サイフを握って、頭の上に掲げている。 「私のじゃないです」 「あの先の方で、道に落ちてたから。あなたかと思ったのにな……」  男の人はうつむき、長サイフを持った手をおろした。 「どうしようかな……」  白い紙のマスクに覆われた男の人の表情は、分からない。 「駅前に交番がありますよ」  私が言うと、男の人は顔をあげた。 「交番はどうやって行きます?」  ひとえの目が見開かれる。 「すぐそこですよ。駅の隣にあるパン屋さん、分かります?」 「ええっと……。分かります」  なんだか、間のぬけた返事。 「ここの人じゃないの?」 「はい。僕、すぐそこの家に住んでる友達に会いに来たんです。そしたら、サイフ、見つけて。ちょうど、あなたが前を歩いてたから、あなたのかと思ったんです」 「そっか」  私は、彼が握ったままの長サイフを見やった。  結構、大きなサイフだな。  これに気づかないなんて、笑っちゃう。  私って、なんも見てないわね。 「友達は、絶対交番を知ってるよ。一緒に届けたら。それじゃあ」  そう言って、私は歩き出した。 「ちょ、ちょっと待って。足、引きずってない?」  私は、また振り返った。  彼がこちらを見ている。 「ええ。そうなの」  つい、右足の太ももを両手でおさえる。 「疲れが出ると、引きずってしまうみたいなの。自分では、わかんないんだけど」 「僕、両親が指圧の仕事やってて、僕も今、勉強中なんです」  小走りに彼が近づいてくる。 「僕に見せて。右足」  えーっ。  思わず、サンダルばきの足を引っ込めて、後ずさる。 「あっ、ごめんなさい。突然で驚きますよね」  彼の目が、苦笑いしたように歪む。  いつの間にか、彼のマスクは顎までズレて、顔が見えた。  ちょこんとした鼻と薄い唇がなんとも言えない、子供のような雰囲気だ。  少なくとも、私よか年下だ。 「ええ。そんな見せれるような足じゃないし」  そう言って、私はふふっと笑った。 「僕でも見たら、何が原因か、分かると思うんだ」  彼はかがんで、足に手を伸ばそうとする。  今にもしゃがみ込みそうだ。 「いいの。いいの」  ますます、私は後ずさる。 「ご、ごめんなさい」  彼ののびかけた腕が引っ込む。 「それじゃあ、ね」  ほほ笑んでもマスクの下じゃあ、彼には伝わってないだろう。  私は、また歩き出す。 「待って。お茶でも行きませんか?」  一瞬、私は立ち止まる。 「あの、だめですか?」  私は、振り返る。  振り返ると、もうすぐそこに彼は来ていた。 「うーん。ごめんね」  年下はなぁ。  私の見立てじゃ、ずいぶん離れてそう。  私、親御さんに怒られちゃうよ。 「いくつなんですか?」  あけすけに聞いてくる彼は、無邪気だ。 「言いたくない。言えるような歳じゃない」  私は、彼の様子に、思わず吹き出しそうになる。 「そんなら、連絡先、交換できない?」 「……無理、かな」  そんなことしたら、付き合いが続くじゃない。 「だめなの?」  しばし沈黙が続く。 「旦那さんとか、彼氏とか、いるの?」  やっぱり、あっけらかんと彼は尋ねてくる。 「……いないよ」 「ほんと? いそうなのに……」  上目遣いに見てくる彼の顔を見て、私は目をそらす。  旦那さんは、いたよ。 「話したいな。ゆっくり」 「うーん。ごめんね」  再び沈黙が続く。 「じゃあ、僕……行きます」 「うん」  私は、穏やかな気持ちを胸にうなずいた。   この数分で、心持ちはマリア様のようだった。  彼の足は動かないけれど、私はマスクの下で微笑み、彼に背を向けて歩き出した。  私は思う。  旦那も彼氏もいないけど、好きな人がいるんだな。  趣味の動画作成サークル、ネット上で知り合った人。  彼の作る動画が好きだ。  ユーモアがあって、面白くて、それでいて自分の気持ちを正直に出している。  彼に会ってみたいと思う。  話してみたいと思う。  けど、どうやって?  顔も知らない、どこに住んでいるかも知らない。  コロナも続いているし、オフ会の予定も立たない。  たとえ、コロナがなかったとしても、会うことすらできないのかも、しれない。   思うだけじゃあ、弱すぎる。  行動するから、気持ちは伝わる。  もし、目の前に彼がいたら……。  ずっと、迷っていた。  彼にメッセージを送ること。  彼から、メッセージが来ないか、ずっと待っていた。  けれど……。  私は、アパートの階段を駆け上がった。  勢いよくドアを開ける。  閉め切った部屋の中から、むっとした空気が流れてくる。  気にせず、部屋の中に入っていく。  いつもなら真っ先に開けるはずの窓から、西日が指している。  私は、部屋の座卓の上に乗せられたマックのノートパソコンを開いた。  ログインして、動画作成サークルのサイトを開く。  彼のアイコンをクリックして、メールボタンをクリックする。  メールの作成画面がディスプレイ一面に表示される。  私は、メールを書き出した。  まずは、拝啓から。    この先、どうなるかは分からない。  けれど、この先。  もし、彼が目の前にいたなら。  きっと、伝えよう。  今日の彼が、私にしてくれたように。    おわり
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