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2:文学王妃の生い立ち
思えば物心ついた頃から、私の周りには不義の恋があった。
私の実の父からして、当然のように愛人を持ち、城には腹違いの姉妹がいた。
母は、そんな父の愛人を、忌み嫌って遠ざけるでもなく、侍女としてそばに置き、腹心として様々な相談を打ち明けていた。
姦通は罪だと、教会では教えながら……その実、貴族も平民も、当たり前のように夫や妻以外の相手と恋のやりとりをしている。
過ちを犯しても、懺悔さえすれば許される――後には、金で罪を購う免罪符なる代物まで現れるほど、人々の罪に対する意識は薄かった。
その一方で、愛によらぬ“政略結婚”も世に溢れていた。
私の父と母も、明らかな政略結婚だった。
母は11歳の時に、17も年の離れた父に嫁ぎ、15で私を産んだ。
母は、立派な人だった。私が3つの時に父が亡くなってからも、私と、そして2つ違いの弟を、しっかり育て上げてくれたのだから……。
私の父は伯爵だった。しかし、傍系とは言え王族の血を引いていた。
そのせいか、母は私の結婚に高い望みを抱いていた。
一度などは、海を挟んだ隣国の第二王子に、私を嫁がせようとしたほどだ。
流石にその縁談がまとまることはなかったが……これが叶わなかったことは、むしろ幸いだった。
何故なら、その第二王子は、後に兄王子の早世によって王となり、六人の妃を次々と娶り……うち二人を処刑台に送ることとなったのだから……。
結局、私は17の年に、3つ年上の公爵と最初の結婚をした。
公爵位の他、2つの伯爵位も併せ持つ大貴族の妻――それだけでも相当な身の上だったが……その6年後、私にはさらにもう1つ、高貴なる身分が追加されることとなった。
弟が、第一王女と結婚し、王位に就いたのだ。
公妃にして王姉という、一見すると輝かしいばかりの立場。
しかし、私の心が幸福で満たされていたわけではなかった。
……夫との間に、子ができなかったのだ。
弟とその妃の間には、結婚の翌年にはもう王女が誕生していた。
その後も、毎年のように王子や王女が生まれた。
しかし私には、5年経っても、10年経っても、子が生まれることはなかった。
幼い王子や王女たちを見ていると、寂しい、羨ましいという想いに囚われる。
後継者を産まなければという心の重圧が、私を苛む。
それだけでも苦痛だった。しかし、不幸はさらに重なった。
最初に、弟の第一王女が、たった3つで亡くなった。
さらに第二王女も、王妃も、その6年後に亡くなった。
さらにその翌年には、西の大国との戦争に出た弟が、大敗し、敵の捕虜となってしまった。
共に出陣していた夫は、傷を負いながらも何とか帰国したものの、王を守れなかった責を激しく問われることとなった。
私は、亡き義妹の遺した幼い王女たちを預かりつつ、敵国まで赴き、弟解放のため奔走した。母は弟の代わりに国政を取り仕切り……まるで、嵐のような毎日だった。
そんな嵐の最中、夫は帰らぬ人となった。
その時の気持ちは、とても一言で表せるものではない。
混乱、哀惜、焦燥……そして何より、深い悔恨。
私たちに、子は無い。後を継げる人間がいない。
そのせいで、夫の家は、夫を最後に断絶してしまったのだ。
私を取り巻く状況は、目まぐるしく変わっていった。
弟は翌年には解放されたが、身替わりとして幼い王子2人が人質に送られ、その後、4年近くも敵国で心細い生活を送ることとなった。
私はとある男性と、二度目の結婚をした。
相手は王国の伯爵位と、ある小国の王位を併せ持つ、11歳も年下の男性だった。
その小国は、元々あった国土の大部分を、他国に占領されていた。残されたのはわずかな領土だけで、弟の保護の下、何とか国として成り立っていた。
前の結婚とのあまりの違いに、戸惑うことも多かった。
しかし喜ばしいことに、最初の結婚では得られなかった子どもを、私はこの結婚で授かることができた。
ひとりは娘で、ひとりは息子。……けれど息子は、7月の7日に生まれて、その年のクリスマスに、天国へと旅立ってしまった。
人生は、出逢いと別れの繰り返し。
これまでにも幾度もあった不幸な別れを、私はどうしようもないこと、避けようもない運命と諦め、受け入れてきた。
けれど……胎を痛めて産んだ我が子との別れは、これまでのどんな別れよりも、私の胸を痛めつけた。
……とても、どうしようもないなどと、受け入れられるものではない。
今もまだ、あの子を腕に抱いた感触を覚えている。
そのぬくもりと、日々少しずつ増えていった重みを、覚えている。
未だに時折思い出しては、胸が締めつけられたようになる。
息子が旅立った翌年に、私はひとつの詩篇を出版した。
哀しみに乱れる心が、深い絶望が、時に創作の糧となることを、この時、私は知った。
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