恋愛卒業記念

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嫉妬心が一番なら、相手の心をとりもどす努力を。 怒りが一番なら、最大の報復を。  夫とひさびさに映画館で映画を観て、帰りに食事をしているときだった。テーブルの横に、知らない女の子が立った。緊張した様子で目は見開いていて、でも、口元は笑顔を作ろうとがんばっている。 「??」 なんだろね、と向かいに座る夫の敏行に目でたずねる。敏行は見るからに動揺していた。これまでに見たことのない勢いで、目が泳いでいる。 「こんにちは。あの、私リサといいます。突然ごめんなさい。でも、どうしても奥さんに話したいことがあって。」 奥さんね、私の嫌いな言葉だ。一体どういうこと?敏行は口をぱくぱくして、必死に何か言おうとしている。ようやく声がでた。 「あ、あの、どうしたのかな、急に。ともかく落ち着いて。」 「ごめんなさい。私たち、出会ってしまったんです。」 リサさんが、思い切ったように言い切った。頭をガンと殴られたようなショックを受ける。やられた。 「いや、あの、こ、これはちがうんだ。」 敏行がどもりながら、否定する。敏行のあわてぶりをみて、逆に私変に冷静になった。 「とりあえず、座って。話をききましょうか。」 リサさんとやらに席をすすめ、店員を呼んでメニューをもらう。店が空いていて本当によかった。そんなことを思う自分に安心した。  3人でテーブルをかこみ、リサさんにコーヒーが届くのを待つ。改めてみてみると、彼女は私よりだいぶ年下だ、20代後半あたりか。髪色はだいぶ明るめの茶色、ネイルはつけ爪をしていて、つけ爪にもストーンがたっぷりついている。かわいいけど、OLでも主婦でもなさそうだ。 「ごめんなさい、ちょっとお手洗いに。」 私が席を立つと、2人とも神妙にうなずいた。さっきまでの勢いはもはやないらしい。  トイレでゆっくり手を洗い、手早くメイクを直す。鏡に映る自分を見る。もうじき40代に入る、しわやシミは同年代の友達と比べて目立たないほうだ。運動も日常的にしているし、周りの友達からは30前からほとんど変わらないといわれることも多い。でも、リサさんから発される若さはまぶしく感じた。こんなことが自分の人生に起こるなんて。さっきのシーンだけで、5歳は老けた気がする。そう考えるとリザさんにも敏行にも憎しみのようなどす黒い感情がわいた。けど、まあ仕方ない。年長者は年長者らしく、戻ってやるべきことをやらなくては。 「お待たせしました。どうぞ。」 「あの、奥さんには本当に申し訳ないと思っているんです。最初に敏行さんに会ったときから、奥さんがいることは知っていたし。でも、私どうしても敏行さんと一緒にいたいんです。」 リサさんが勢いよく話しだす。話しているうちに、自信がでてきたのか、口元にさっきより自然な笑みを浮かべている。 「リサちゃん、妻には俺から話すから。今日はひとまず帰ってくれないか?たのむ。」 敏行が、懇願という調子で諭してみるが、勢いのついたリサちゃんは止まりそうにない。敏行のほうを、口をとがらせて見ている。 「なるほど。直接私に話したいのよね?わかりました。最初から、詳しく話してもらえる?」 私が水を向けると、リサちゃんがとうとうと話し出した。リサちゃんの働く店に、敏行が会社の人に連れられてきたのが初対面だったこと。そこで意気投合して、何度かデートしたこと。とは言っても、奥さんがいるので最初から肉体関係になったわけじゃなく、そういう関係になったのはここ2週間だということ。毎日連絡をとりあっていること。最後のほうは、リサちゃんは夢見るような、自慢気な顔でうっとりと話していた。 「それで、私たちもっと一緒にいたいと思っているんです。だから、奥さんに敏行さんと別れてほしいんです。」 そう言って、リサちゃんが満足そうに私を見つめてくる。意地悪というよりは、案外無邪気な瞳をしている。私は敏行のほうを見る。敏行は、観念したような呆けたような顔をしている。私が見ているのに気づくと、あわてて言った。 「恵子、すまない。リサちゃん、今日はもう帰ってくれないか。」 時計を見る。あと20分で、子供たちが学校から帰ってくる。家に帰らないと。 「そろそろ子供たちが帰るから、とりあえず私はもう帰らないと。」 2人にそう言って席を立つと、 「俺もかえる。」 敏行が私の顔をうかがいつつ、言ってくる。ひとまず、私のご機嫌をとろうという気持ちはあるようだ。 「じゃあ、ここで解散ということで。」 レシートをつかみ、敏行にわたす。 「うちで払うので、お代は大丈夫よ。」 リサちゃんが立ち上がって、「本当にごめんなさい。」と最後にもう一度頭を下げる。  2人で歩いて家まで帰る。敏行がこちらの顔をちらちら見ているのがわかるけれど、黙って歩く。私から何か言わないとならないことではないし、敏行は自分が悪いとき、責められると逆キレする。そのわりに、相手に黙られると一番こたえるタイプだ。この十数年で学んだ。ほうっておくのが一番だ。 「恵子、本当にすまない。その、リサちゃんのいうことは事実な部分もあるけど、彼女のかんちがいの部分もあるんだ。」 意を決したように、敏行が話し出す。 「事実ね。ちなみに、デートしたり、何度か寝たのは事実なの?」 ここが肝心だ。たたみかけて相手が逆キレしないよう、意識して冷静に、おだやかにたずねる。 「…。」 敏行はどう答えようか、悩んで黙り込む。私の顔を相変わらずちらちら見ているので、私に怒られないか気にしているんだろうか。話をそらされると困るので、こちらも黙って返事をまつ。 「そうだよ。本当に申し訳ないと思ってる。3回だけ寝た。」 立ち止まり、観念したように敏行がいう。言い終わって、非難されるのを覚悟したように目を閉じた。 「そっか。わかった。」 私はまた歩き出す。子供たちが帰るまであと何分か時計をみる。あと10分。立ち止まって話している時間はない。 「それだけ?ど、どう思ってるの?」 「どう思ってるかは、私が先に聞きたいかな。どうしたいの?」 敏行は反応に困ったような表情で、口をもごもごさせた。 「どうしたいのか考えて、決まったら知らせて。子供たちに聞かせたい話じゃないから、子供がいないときに。もう時間がないから、とにかく帰ろう。土曜だから子供たちお弁当をもっていってないし、お昼ご飯を作らないと。」 敏行が慌てたようにうなずく。状況がよくわからないけど、おだやかな空気でいられるのなら従おう、そういうことなのか。  家に帰って、下準備しておいたサンドイッチを作ったところで、春樹と麻衣がそれぞれ帰ってきた。間に合ってよかった。春樹と麻衣は中学生で、別々の中学に電車で通っている。 「2人とも、お帰り。お昼ご飯できてるよ。」 「春樹、麻衣、おかえり。」 敏行も部屋着に着替えて、リビングにやってきた。敏行は普段仕事が忙しく、平日は子供たちの顔をみることもほとんどない。せめて土日は一緒に過ごそうと、食事はみんなでとることにしている。敏行には腹が立つところもたくさんあるけれど、子煩悩でいい父親だとは思う。 「サンドイッチだ、やった!私ツナたくさんほしいなあ。」 「おれタマゴー。」 春樹と麻衣が帰ってくると、家が一気ににぎやかになる。 「あ、そういえば、ママたち、今日映画いったんだっけ?どうだった?」 麻衣がツナサンドをほおばりながら、きいてくる。敏行が、ぎくっとした顔で固まる。 「なかなか面白かったよ。続編があったらまた観たいな。」 私が答えると、敏行がぎこちない笑顔でほほ笑む。 「そういえば!そろそろクリスマスだね。今年も軽井沢でホワイトクリスマスできる?」 弟の春樹が無邪気に尋ねてくる。我が家のクリスマスは、雪の降る軽井沢で2泊旅行をするのが恒例だ。のんびりとホワイトクリスマスを楽しむために。私が年間行事で一番すきなのがクリスマスで、付き合いだしたころ、敏行がクリスマスを満喫できるようにと、旅行を予約してくれたのがはじまりだ。去年は春樹の受験で行けなかった。 「うーん、そうだね。どうかなあ。」 クリスマスは2か月後だ。その頃うちの家族がどうなっているのか、正直私には想像がつかない。行くといって行けなかったとき、子供たちが悲しむのは見たくない。答えあぐねていると、 「今年も行こう。すぐ予約するよ。」 敏行が、私を見つめて言ってくる。クリスマスは家族と過ごすつもりということか。子供たちの気持ちを思うと、複雑だけどほっとする。 「楽しみだね。」  晩御飯をおえ、子供たちはめいめい自分の部屋に引き上げていった。それを待っていたように敏行が「ちょっと来て。」と、私を寝室に呼んだ。 「さっきの話なんだけど、いいかな。」 私はだまってうなずく。 「しつこいようだけど、恵子には本当にすまないと思ってる。ごめん。どうしたいなんて、おれが言える立場じゃないけど…。おれはできれば子供たちとも恵子とも離れたくない。」 「リサちゃんのことは、どうするの?」 「リサちゃんにはちゃんと話すよ。元々こっちが既婚だと彼女も知ってたわけだし。まさか別れてって言うなんて、思ってなかった。」 「うーん…。でも、好きなんじゃないの?」 「好きというか、かわいいこだとは思うよ。でも、離婚だとか、一生一緒にいるとか、そこまで真剣に考えてたわけじゃない。」 「よくわかんないな。離婚したいの?したくないの?」 「離婚なんて、考えてもなかった。」 「…わかった。私も色々考えてみる。なんせ急だったし。今日はもう疲れたよ。」 「そうだな…。ごめん。」 「私はこれ以上いやな思いはしたくないし、なにより子供たちに今の時点で心配をかけたくない。だから、今後どうするか決まるまで、今までどおりちゃんと夜は家に帰って来て、休日は家族で過ごしてほしいと思ってる。ほれは可能?」 「もちろん。本当に…惠子にいやな思いさせて申し訳ないと思ってる。」 「うん…。ありがとう。お風呂に入ってくるね。」  熱いシャワーで体を流し、浴槽にすべりこむ。あったかい。自分をねぎらうために、特別な入浴剤をいれる。乳白色のお湯がとろっと肌をすべる。生き返るってこういうことだ。はあ…、どうしたものか。今日はさんざんな一日だった。  不思議なくらい、嫉妬は感じなかった。リサちゃんに対しても、敏行に対しても。心にあるのは、自分にいやな思いをさせた2人へのイラつき、裏切った敏行への怒り。それと疲労。 敏行が誰を好きなのか、私よりリサちゃんが好きなのか。新婚のころなら、そこが一番大事だっただろう。でも今は、正直どうでもいい。大事なのは、子供たちと私の未来のために、不利益を避けることだ。恋愛感情が死んでしまったというと、悲しく聞こえる。けれど、恋愛が死に、子供への家族愛が残ったことで、今回は冷静に立ち回ることができた。仕事の議事録作成のためにいつも持ち歩いているレコーダーに、必要なことは全て録音することができた。カードは全てこの手にある。どれを使い、どう動くのか。考える時間もたっぷりある。今は何も考えず保留にする、そんな自由すらある。そう思うと、疲労した心と体の隅々まで、力が行き渡るように感じた。  上機嫌でお風呂から上がり、とっておきのワインを開ける。恋愛卒業記念に乾杯だ。1人でチーズをつまみながらグラスを傾けていると、敏行がおそるおそる様子を見にやってきた。椅子にすわり、許しを請うように小さくなっている。 「…敏行ものむ?」 と誘うと、敏行がとまどいつつも頷く。 「カンパイ!」 「え?な、なにに?」 「うーん、仕事の締め切りを昨日終えたから。」 「そうなんだ、お疲れ様。」 敏行が、ようやく安心したように微笑む。 「クリスマス、いつものところを12/23から25で予約したよ。」 「ありがとう。子供たちも喜ぶね。」 私もにっこりしてみせる。  クリスマスイブも、当日も一緒に過ごせないと、リサちゃんはきっと不安になるだろう。あの性格だから、敏行にたくさん不満をもらす姿が目に浮かぶようだ。敏行も、自分のことは棚に上げて、責められることでいやな思いをするはずだ。まずは、すまないという気持ちを、2人に身をもって味わってもらおう。離婚という選択肢もなくはないけれど、子供たちにかけられる学費や手間は減るだろう。養育費だって状況が変われば減額されかねない。自分のストレスにならず、かつ子供と自分が損をしないベストな道はなんなのか。専門家にも相談して、ゆっくり探せばいい。恋愛で判断力が鈍らないことに、感謝しながら。 おわり
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