三話

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 アザレアがカーテンを開けると、滲むような夕日が部屋を照らした。重たい身体を引きずるようにして、ベッドに腰かける。祭司は先刻部屋を去って、今は一人となっていた。  寝る前に掃除の者を呼び、シーツを変えてしまいたい。服も着替えなければならないし、色々とこびり付いた身体を洗いたい。早くしないと日が暮れてしまう。  色々と考えるのが面倒になり、窓を開け放った。外からの風が、緩やかにカーテンを揺らす。窓の外は庭に面しており、視界の隅で立っている衛兵と目が合った。疑念の視線へ笑顔で手を振れば、誤解が晴れたのか衛兵は神殿の外へと向き直った。  アザレアは部屋のすぐ前にある池へと近付く。人口の池は近くの川から透き通った水を引いていて、水浴としても使えた。  躊躇わず、全身をそこへ沈ませる。体中が冷えていく感覚よりも、身体の汚れが薄まっていく心地の方がよかった。全身を水で浸し、顔だけを水面に出してぼんやりと空を仰ぐ。橙色に染まった空は、夕日も眩しさを減らしているから見つめやすかった。  ドアの開く音が、水音に紛れて届く。起き上がろうとして、音の正体に気付いて顔だけを向けた。 「何をしている」  勝手に部屋に入り込んできたシェドが、ずかずかと池の前で立ち止まる。戻ってくるのが儀礼の途中でなくてよかった、とアザレアは思った。 「水浴びよ」  簡潔に答え、また空を見つめる。水に濡れて服が透けた肢体を見ても無反応なのだから、やはり今回も誘っても無意味だろう、と既に諦めつつ。 「疲れたのか」  まるでアザレアが何をしていたのか、理解しているかのような問いかけだった。彼にしては察しがいいと、つい笑う。夜色の髪が、視界の隅でさらりと風に揺れていた。 「少し、疲れちゃったかもね」  ふと思いつき、アザレアはそんな事を呟いた。軽く、楽しそうに、けれど気怠さを混ぜた声音で。 「外に出る気は、ないのか」  ぼそり、とシェドは提案した。無表情の裏にあるのは、憐れみだろうか。  もしそうなら、とアザレアはクスクス笑う。まさしく哀れで同情を誘う、非力な女のように。 「貴方が私をここから連れ出して、幸せにしてくれるの?」 「よその国までは送ってやる。後は知らん」 「容赦ないわね」  雑な扱いに、呆れて感想を呟く。  この男は自分に同情しているわけではないらしい、とアザレアは察した。彼の物言いがあまりにも、ただ事実をなぞって確認しているだけのようだから。  ならば哀れな娘を演じても、効果は薄い。  憐れんでくれたら、慣れている分また別の誘い方ができたのにと残念に思っていると、顔に影が差す。 「アザレア」  すぐ傍でしゃがみ込まれ、紫色の瞳が顔をじっと見つめてくる。夕闇に紛れ、表情が更に読みにくくなった。静かな声が、そっと降ってくる。 「お前の安息は、どこにあるんだ」  アザレアはその問いかけに考えるように、目を閉じた。暗闇の中、微かな息遣いと揺れる水音だけが聞こえてきた。
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