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第五十六節 同胞を見捨てる者たち・前
1573年3月30日。
織田信長が京の都の東の高台に築かれた知恩院[現在の京都市東山区林下町]に着陣し、上京と下京から合わせて銀2,300枚を受け取った翌日の出来事である。
「国境をがら空きにしてまで全軍をかき集め、京の都へと攻め上がって来たのは良いが……
信長め。
東の高台に陣取るだけで何もしてこないではないか」
室町幕府の頂点に君臨し、数年前に信長の手で築かれた二条城に住む将軍・足利義昭だ。
西の高台に築かれた二条城の天守からは、東の高台にある知恩院が手に取るようによく見える。
織田家の家紋である木瓜の旗、永楽銭が書かれた軍旗に加え、明智光秀の水色桔梗の旗、佐久間信盛の丸の内に三引両の旗、柴田勝家の丸に二つ雁金の旗などがはためいているものの、どの旗も動く気配がない。
義昭の発言に、太鼓持ち[相手に媚びへつらい、機嫌を取って好かれようとする人のこと]の側近がすかさず反応する。
「何もしてこないのではなく、何もできないのでしょう。
上様[将軍である義昭のこと]のご威光[人をおそれさせる力や勢いのこと]に恐れをなしたに違いありません」
「真にそうなのか?
何やら不気味ではあるが」
「国境をがら空きにした『せい』で、信長はいつ無防備な背中を襲われてもおかしくない状況にあります。
朝倉軍と武田軍に再び攻められることが怖くてたまらないはずでは?」
「朝倉軍を率いる朝倉義景は、決して凡庸な武将ではない。
加えて。
新たに武田軍を率いる勝頼は、父の武田信玄を超えるほどの軍略の才を持っているらしいからな」
「よほど追い詰められているのか……
何度も使者を送って我ら幕府との和平を懇願しておりますぞ」
「いつ無防備な背中を襲われるか不安で夜も眠れないのであろう。
すべては、将軍たるわしを甘く見るからこうなるのじゃ!
身の程を思い知れ」
義昭はこう言って信長の大軍を相手に必死の虚勢を張っている。
小心者ほど虚勢を張るというが、この男も同じ部類なのだろうか。
◇
義昭をさらに小さくしたような太鼓持ちの側近も、調子に乗って信長の使者とのやりとりを披露し始めた。
「先程の使者など……
破れかぶれに、こんなことを抜かしていたようです。
『この二条城を築いたのが誰かをお忘れか?
幕府の秩序を立て直すために信長様がどれほどの働きをしてこられたか、もうお忘れになったと?
しかも。
よりにもよって、幕府のために何の働きもしていない朝倉義景や武田信玄と組んで信長様を討つ企てを練るなど言語道断ではござらぬか!
そんな卑劣な裏切りに合ってもなお、信長様は互いの過去を水に流そうと提案なされ、信長様の嫡男である信忠様を人質に出すことまで譲歩しているのに……
それでも和平を断ると仰せとは!
致し方ありませんな。
これほどまでに我らの提案に耳を貸さないならば、京の都に火を放つことと致します』
と」
「何っ!?
京の都に火を放つだと?」
さすがの義昭も、この『脅迫』には激しく動揺しているようだ。
一方の太鼓持ちの側近は、何も気にしていないのか淡々と答える。
「京の都を焼き討ちにするなど、比叡山の焼き討ちをはるかに超える暴挙……
そんな真似をすれば、信長は子孫代々に至るまで呪われるでしょうな」
「信長め!
京の都に、どれほどの女子や子供がいるか分かっていながら……
気でも触れた[気が狂うという意味]か!
それよりも。
京の都を奴に焼き討ちにされては一大事じゃ」
「和平の申し出に応じるおつもりで?」
「うむ。
京の都に住む民まで『人質』に取られてしまっては致し方あるまい」
「……」
「それで、信長の使者はどこに?」
「和平の申し出に応じる必要などないと存じます。
使者なら、もう追い返しました」
「何と!?
もう追い返したのか!」
「ご安心ください。
信長が、この京の都に火を放つことなど有り得ません」
「なぜ……
そう言い切れる?」
「信長は、京の都の商人たちにこう申したとか。
『焼き討ちを見逃す代わりに、銭[お金]を差し出せ』
と」
「銭[お金]を?」
「はい。
『充分な銭[お金]を差し出せば、焼き討ちを見逃すと約束しよう』
と」
「それで?
商人たちは銭[お金]を差し出したのか?」
「下京は銀800枚を差し出し、上京は倍の銀1,500枚を差し出したようですな」
「ん?
上京と下京は、なぜ別々に銭[お金]差し出したのじゃ?」
「その理由であれば……
下京の商人が、こう申していました。
『下京の者どもは大した額の銭を差し出すことなどできまい。
上京は上京だけで差し出すことにしようぞ。
万が一、上京と下京のどちらかが焼き討ちになる事態に陥ったとしても……
焼き討ちにされるのは下京だけで済むではないか』
と」
「焼き討ちにされるのは下京だけで済む、だと?
相変わらず上京の商人どもは薄汚いな。
己が助かるためならば、平然と『同胞を見捨てる』のか」
「上様。
この幕府を銭[お金]で支えているのは上京であって、貧乏人の下京などではありません。
使い道のない貧乏人がどうなろうと……」
「……」
「上様。
我らは上京の商人たちから何度も念を押されています。
『堺[現在の大阪府堺市]の商人と手を組む織田信長からの和平に応じれば、我ら京の都の武器弾薬の商いはどうなるのですか?
もし幕府と信長が和平を結ぶようなことがあれば、銭[お金]の援助は一切致しませんぞ。
まあ……
そんなに心配せずとも、父の武田信玄を超えるほどの軍略の才を持つ勝頼が信長の背後を突いてくれるでしょう』
と」
「……」
◇
太鼓持ちの側近の一人は、上京の商人が続けて言ったことを思い出していた。
「さすがの上様[将軍である義昭のこと]も……
京の都に住む民を人質に取られれば、信長からの和平の申し出に応じるかもしれません。
そこで。
幕府軍に、是非ともやって頂きたいことがあります」
「幕府軍にやって頂きたいこと?」
「信長が任命した京都所司代の村井貞勝を討って頂きたい」
「何っ!?
東の高台にある知恩院に布陣している信長の『目の前』で、村井貞勝を討てと申すのか?」
「御意。
信長から重用されている家臣を幕府軍が討てば、信長と幕府は不倶戴天の敵となりましょう」
「幕府が信長からの和平に応じる可能性を完全に消せと?」
「はっきり申し上げますが。
上様は一度、上様に尽くした信長を『裏切って』朝倉義景や武田信玄の味方となられた過去があります。
一度裏切った者が、二度裏切ることは絶対にないと申せますか?」
「そ、その裏切りには……
おぬしたち上京の商人も一枚噛んでいたではないか!」
「……」
「武器弾薬の商いにおいて京の都の『商売敵』であった堺と手を組んだ信長を忌み嫌い、信長の敵に武器弾薬を大量に流していたはず」
「……」
「それだけではないぞ?
『信長は比叡山延暦寺を始めとして、朝倉義景、浅井長政、石山本願寺に本拠地を置く一向一揆などの数多くの敵に手を焼いているとか。
今こそ。
幕府のやり方にあれこれ口を出す鬱陶しい信長を排除する好機[チャンス]が到来しているのでは?』
こう何度も唆して、幕府が信長討伐命令を出すよう裏で操っていたではないか!」
「それは、それ。
これは、これ。
一度裏切った者は、都合が悪くなればまた裏切るもの。
無条件に信用などできません」
「……」
「お忘れですか?
あなた方……
幕府の側近衆の方々に、我ら上京の商人が様々な便宜を図ってきたことを」
「便宜?」
「銭[お金]を差し上げ、酒を差し上げ、場合によっては女子も差し上げたのをお忘れで?
確か、さる御方は……
若い女子よりも『少女』が好みと申しておられましたな」
「……」
「後で問題にならぬよう身寄りのない戦災孤児を捕まえ、きれいに化粧まで施した上で差し上げたら……
大層お喜びであったのをよく覚えております。
あれはまだ7、8歳でしたか……
それがしにも是非、邪な欲望を叶えた気分がどうであったか教えて欲しいものです。
ただ……
ご家族に知られたら、さぞかしまずいことになりましょうな?
確か同じ歳の娘をお持ちであったはず……
己の父親の醜い裏の顔を知ったらさぞかし……
おっと。
これは独り言にございます」
「もう止めよ。
分かった。
今日中に村井貞勝を討つと約束しよう」
「京都所司代の屋敷に、さほどの守備兵はおりません。
奴の首など簡単に取れましょうぞ」
数時間後。
数百人の幕府軍が出撃した。
【次節予告 第五十七節 同胞を見捨てる者たち・後】
幕府の家臣たちの中で……
京都所司代の屋敷を襲撃することに猛反対した武将が3人いました。
「あの軍勢のどこが、いつ無防備な背中を襲われるか不安で夜も眠れない軍勢に見えるのか?」
と。
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