38人が本棚に入れています
本棚に追加
第十四節 お金の普及、災いの連鎖の始まり
平清盛。
平安時代末期に藤原摂関家などの公家[貴族のこと]から政治権力を奪い取って日本初の武家政権を確立させた日本史上有名な人物であるが……
清盛に絶大な政治権力を与えたのは、武力ではなく『お金』であった。
彼は一途にこう思っていた。
「物々交換よりも、貨幣[お金]を使って売り買いする方がはるかに便利ではないか。
貨幣[お金]が普及すれば、飲食、交通、観光、芸能や風俗などのモノを介さない商売[サービス業のこと]も盛んになるだろう。
人々は思い思いの場所で飲食し、船などに乗って旅行し、豪華な宿や趣きのある宿に宿泊し、地域の芸能を観て、様々な音楽を聴くことができるようになる!
人々の暮らしは、今よりもずっと豊かで楽しくなるに違いない!」
と。
一刻も早く日本に貨幣[お金]を普及させようと考えた清盛は、宋[当時の中国の王朝]の国で使われている宋銭というお金に目を付けた。
「日ノ本で貨幣[お金]を作るよりも……
宋から宋銭を買った方が、手っ取り早く貨幣を普及させることができるのではないか?
ただし。
宋から大量の宋銭を買うには、大きな船が必要であり、それを泊める巨大な港も作らねばならん。
これは容易なことではないぞ。
摂津国・福原の地[現在の神戸市中央区]に巨大な港を作るとなれば、平氏一族の持っている金銀財宝を全て注ぎ込むしかないのだからな」
刹那、一抹の不安が清盛を襲う。
「もしも。
人々が貨幣[お金]を必要とせず、物々交換のままで良いと考えれば……
全てが無駄になってしまうかもしれん。
その可能性があるとしても、わしは……
人々の生活を豊かにし、楽しくして、人の役に立ちたい!
わしは、貨幣の普及に己の人生を賭けよう」
英雄と呼ばれるに相応しい、この『決断』が……
お金の普及と現代に至る神戸市の発展を決定付けたと言っても過言ではない。
◇
賭けは見事に当たった。
清盛の予想をはるかに超えて、貨幣[お金]は恐るべき早さで日本全国へと普及していく。
福原の港はお金を欲しがる人々でごった返し、ありとあらゆる富が平氏一族に転がり込んで来た。
金銀財宝、豪華な屋敷、豪勢な飲食、美男美女と、もうキリがない。
平氏はかつて、同じ『武家』である源氏よりも格下の地位にいた。
それが今や……
地位は逆転し、平氏は財力で他の武家を圧倒し始める。
その武家にとって、藤原摂関家などの『公家[貴族のこと]』は雲の上の存在であったらしい。
「我らは番犬を飼っているのじゃ。
武家という名の番犬を、な。
あれは人ではない。
汚らわしい犬畜生、地べたを這う虫けらよ。
我らに逆らう輩と戦って血を流し続けていろ」
武家を犬畜生と蔑んだ公家でさえ、やがて平氏一族に媚びへつらうようになる。
お金に物を言わせた平氏一族が次々と官位を『買収』したからだ。
こうして。
権力の象徴である官位を失ったことで、数百年もの栄華を誇っていた公家政権は脆くも崩壊した。
日本初の武家政権を確立させた清盛は、平氏一族に永遠の繁栄を齎したかのように見えたが……
お金は、お金を普及させた清盛自身も、その恩恵に浴した平氏一族をも幸せにすることはなかった。
むしろ『災いの連鎖』の始まりであった。
◇
歴史の歯車は……
ここから、あらぬ方向へと回り出す。
平氏一族の成功は、ひとえに清盛一人の『実力』であると言っていい。
一族の他の者たちに実力などないに等しい。
清盛から指示されたことを、その通りやったに過ぎないのだから。
その程度の働きにも関わらず……
異常に高い報酬を受け取り、異常に高い地位まで与えられた。
それを見ていた他の者たちはどう思うか?
特に、かつて平氏より高い地位にいた者たちは?
平氏一族は……
もっと周りをよく見るべきであった。
機会に恵まれない者たちの嫉妬と憎悪が、どれだけ激しいかを。
同じ武家の源氏はこう思っていた。
「清盛の実力には一目置いている。
加えて、実力と人柄の両方に秀でた長男の重盛にも一目置いている。
しかし!
他の奴らは何だ!
実力もなく、何の実績も上げない者が……
ただ平氏というだけで!
贅沢三昧の生活を送り、分不相応な地位まで得て我らを顎で使っている!
一方で我ら源氏には……
いくら実力を磨いても、いくら実績を上げても、何の機会もやって来ない!」
源氏は、数代前の八幡太郎義家が棟梁であった時代が絶頂期であった。
その義家が死ぬと醜い身内争いを起こして弱体化し、見るも無残に衰退していた。
源氏が自らの有様を嘆くほど、平氏への嫉妬と憎悪は激しさを増していく。
◇
平氏一族の中で、『相手の立場』になって考えようとする優秀な人物が一人いた。
平清盛の長男・重盛である。
「平氏でなければ人ではない、と一族の者たちが申していただと?
何たる愚か!
我らは実力ではなく……
実力と運に優れた棟梁[一族の代表のこと]に恵まれたに過ぎないことを、未だに理解できないとは!
無能な役立たずにもほどがある!
いずれ相応の『報い』を受けるに相違ない。
ああ、全てはこの呪われた銭のせいなのか!」
日々大きくなる心痛と比例し、重盛の身体は病魔に蝕まれていく。
結果として父の清盛よりも先に死んだ。
これでもう、平氏に優秀な人物は誰もいない。
一方。
平氏への嫉妬と憎悪をひたすら募らせた源氏は、ついに爆発する。
『源平の争い』である治承・寿永の乱が勃発した。
お金の普及は、日本史上最大の内戦を引き起こすという災いを招いたのだ!
◇
幸いなことに、源氏には3人もの『英雄』がいた。
関東の武士たちの人望を集めた源頼朝。
倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍に勝利した源義仲。
その義仲公を超える戦いの天才である源義経。
義経は一ノ谷の戦い、屋島の戦い、最後は壇ノ浦の戦いで勝利し、平氏を滅亡へと追い込む。
結局のところ。
お金は、お金を普及させた平清盛自身も、その恩恵に浴した平氏一族をも幸せにすることはなかった。
むしろ、とんでもない災いを招いたことになる。
一族を尽く根絶やしにされてしまったのだから。
◇
1192年。
平氏を滅ぼした源頼朝は、鎌倉幕府を開く。
幕府が平氏に代わって宋との貿易を独占したが、巨万の富を得ることはできなかったらしい。
既に宋銭が普及していたからだろう。
それでも。
あの徳川家康も尊敬し、真似したと言われるほど……
鎌倉幕府は見事な『組織』であった。
問題が生じても、自分たちで勝手に裁いて報復することを決して許さない。
主である幕府に全ての裁きを仰がせた。
これでは戦争は起こりようがなく、およそ100年続く平和を達成する。
「源平の争いでは多くの血が流れたが、我々は苦難を乗り越えた。
平和で安全な世が実現したのじゃ!」
人々は皆、明るく希望に満ちた未来を予想した。
果たして……
これで、災いの連鎖は断ち切れたのだろうか?
◇
「凛よ。
宋銭の普及は……
飲食、交通、観光、芸能や風俗などのモノを介さない商売[サービス業のこと]を盛んにした。
これに、鎌倉幕府が達成した平和が拍車を掛けた」
「平和が拍車を?」
「うむ。
ありとあらゆる場所に市[商店街のこと]ができ、モノを売買する店に加えて飲食、宿、芸能や風俗を提供する店も次々と出現した。
これらの場所で働くために大勢の民が農地を離れ始めた。
日ノ本の人々は、まさに『一変』したのだ」
ちなみに。
日本の伝統芸能のほとんどは、この鎌倉時代に誕生している。
宋銭の普及あってのことだ。
宋銭が、日本の伝統芸能に重要な役割を果たしたのは間違いないだろう。
そしてお金は、人間の心の中へと入り込む。
心に根を張り巡らせ、やがては心を蝕み、人間そのものを『腐敗』させてゆく。
「平和だ!
安全だ!
より良い時代になったものだ。
お金は、ありとあらゆる楽しみを与えてくれる。
そして。
もっとお金があれば……
生活はもっと豊かになり、もっと楽しくなるに違いない。
もっと、もっと多くのお金を得よう。
お金こそがわたしたちを幸せにしてくれる、わたしたちの神だ!
より多くのお金を得ることこそ、人の生きる『目的』ではないか!」
こうして生きるための手段に過ぎないお金が、人間の生きる目的へと変わっていく。
目的と手段を履き違えた愚かな人間がお金の『奴隷』と化したことで……
災いの連鎖は断ち切れるどころか、より大いなる災いを齎そうとしている。
秩序が脆くも崩壊する日。
その日は、刻々と迫っていた。
【次節予告 第十五節 お金は目的か、それとも手段か】
凛は強い違和感を覚えます。
宋との貿易では、金や銀、木材、刀などを売って宋銭を買っていました。
ただし、宋銭はお金であって、お金そのものには何の価値もないのです。
最初のコメントを投稿しよう!