エピローグ

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「日本はいわゆる20年体制からこちら」  無精ひげを生やした中年の男は、集まった聴衆を前にして深呼吸をした。予想外にも衆議院選挙の立候補演説を企てたところ、会場は満員御礼、あふれ出た立ち見客がわれ先にと押し合いへし合いしているという状況であった。 「とてつもなくおかしな方向へ舵を切ってきました。恒久平和、非暴力、円満な人間関係。憲法9条の拡大解釈がもたらした災厄は燎原の火のごとく日本を覆い、わが国を一億総ゾンビ化社会へと貶めたのであります」  聴衆からはしわぶきひとつ聞こえない。これはよい傾向なのだろうか? 衆議院議員候補は不安に駆られる。 「みなさんは嬉しかったり楽しかったりすれば笑うでしょう。哀しいことがあれば泣くでしょう。では腹に据えかねるようなことがあればどうしますか。――そうです、怒るんですよ。怒らなければならないんですよ。不思議なことにわれわれは当然の権利を剥奪されています。わたしは現況が憲法違反であると提言したい! 与党である〈恒久平和党〉の党是は9条をよりどころにしているそうですが、皮肉なことにそれが国民の最低限度の生活を侵犯しているのです。  かつてわたしが闇商売をしていたころ、ある依頼人と仕事仲間がいました。依頼人は人間らしさを取り戻すため、恒久的憤怒発露権を求め、仲間はそれを助けるべく脳処理の施術に同意してくれました。彼らは当局に捉えられ、あらかじめ結果の決まった裁判で裁かれ、非人間的な処置を受けました」  演壇に二人の男女が現れる。女性は小柄で若く、男性は猫背で年齢不詳。二人とも人生になんらの不自由もないとばかりに満面の笑みを浮かべている。 「彼らは当局によってゾンビに改造されてしまいました。この悲劇にはわたし自身の油断も関係しています。いまでも自分自身を許せないままでいます。しかしわたしがもっとも許せないのは」桐谷議員候補は演台に拳を打ちつけた。「こういう吐き気のするような処置を国民のためだとぬかしてやりやがる、ゴミカスの行政府だ!」  聴衆からざわめきが漏れる。もしかして彼はいま怒っているのでは? そんなはずはない。そんなはずはないのだが……。 「ご覧ください」彼はワイシャツをまくり上げ、二の腕を露出させた。いまでも治りきっていない生々しい傷跡が白日の下にさらされる。「これが決意のしるしです。わたしは二人の刑が執行されてからすぐ、体内からセロトニン・パッチを摘出しました。友人がゾンビにされて、黙っていられますか。友人がゾンビにされて黙っているのが模範的な国民なのですか。そうであるならば、俺は模範的国民なんざ地獄へ落ちろと言ってやりたい」  ざわめきが大きくなり、たまらず一人が質問を投げた。「当局になぜ逮捕されないんです。だってパッチをとっちゃったんでしょう」 「自由への容喙を理由に弁護士を立ててます。法的にはグレーですが、連中は当分わたしに指一本触れられないでしょう」  感心したようなため息がほうぼうから漏れた。 「いまここに〈怒り心党〉のメンバー7人が集まっています。かつて〈アングリー同盟〉というささやかな反政府団体を組織していた人たちです。彼ら全員がパッチを摘出しており、次の衆院選に出馬する予定です。  われわれが当選した暁には、現今の恐るべき全体主義体制を打倒し、誰もが自己責任で怒ることのできる当たり前の社会を取り戻します。わたしはそのとき真っ先に友人の二人が再び怒りを発露できるよう、働きかけることを誓います。その次はいまこの場におられるみなさんの番です。さあ、ともに当たり前の社会を取り戻そうではありませんか!」  スタンディング・オベーションによる万雷の拍手が沸き起こった。たったの8人で政治が動く可能性はゼロであるし、仮に彼ら全員が当選しても議席数的に勝負にはならないだろう。  それでもこの瞬間、歴史は確かに動いたのである。
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