マルボロ12ミリ

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マルボロ12ミリ

どしゃぶりの雨の中 僕は傘をさして家路に急いでいた とりあえずで購入した安い偽皮の靴は 水をたっぷり吸って アスファルトの上ではよく滑り 何度か転びそうになった 安物の鞄はぬれてずっしり重い 一度全て出して乾かさなければいけないだろう 一つ気がかりなのは、まだ読み終わっていない村上春樹の小説の安否だ 風の気まぐれで流れが変わる雨に 傘は全く歯が立たず もう下着まで水浸しだ 急速に体温を奪う雨にさらされ 僕は世界の終わりのような絶望を感じていた 太陽は雲に覆われ 視界は数メートル先で途切れる その上、ハードタイプのワックスで キッチリ固めた前髪が 湿気でホールド力がなくなり 遠慮なく視界にチラチラ現れる 今日のゴールとなる 真っ暗な1Kのマンションを想像すると このまま地面に突っ伏してしまいたくなるほど 憂鬱な気分に拍車がかかった すると、2ヶ月吸っていないマルボロが急に恋しくなった 少々、遠回りにはなるが傘をたたみ、狭い路地に入る 肩からずり落ちたスーツを持ち上げると 左右のアンバランスな重さでふと気がついた 今日に限って、スマホをスーツの内ポケットに入れていたのだ 2日前にカナコがLINEに「少し距離を置きたい」とメッセージを入れたまま 連絡が取れなくなったことが原因だ ヴァイブレーションが唸る度に、気になって見ていたのだが、 くだらない広告や、容量不足を知らせる警告しかなかった 「クソが」 ヤケクソになり、もうどうにでもなれ!と思い そのまま小走りでたばこ屋に向かう 住宅街の裏路地に1件だけポツンと 昔ながらのトタン屋根で、 「たばこ」と赤色の背景に白文字で書かれた 鉄板をぶら下げたイシダたばこ店がある トタン屋根に雨粒があたって、 ウガンダの民族音楽のような にぎやかなリズムを奏でている 寒さでアドレナリンが出過ぎたのか 少し気分が良くなってきて 僕はその場で軽くステップを踏んで タップダンスの真似事をした 足を上下する度に 水しぶきが螺旋状に舞う 売り場の半分閉まっているシャッターを叩く 暫く叩いていると店の奥から 「お客さんかい?」 というだるそうな声が聞こえた 「いるんだろ?数少ない常連が久々にきたんだぜ」 少しの沈黙があり、恐る恐るといった感じでシャッターが開く 「あら、ケンちゃん!びしょぬれじゃない。ちょっとまっててな」 ここのばあちゃんとは、長い付き合いだ。 最初は、レトロな雰囲気が好きでこの店に通っていたが、 僕が精神的に参っていて休職していた時に、 サンプル品や海外の珍しい珍味などをくれたり そのお返しに、買い物の荷物を持ってあげたり、 暇な時に店番をしているうちに すっかり溶け込んでしまい 一時期すっかり入り浸っていたのだ。 ギシギシと音を立てて、たばこ屋の裏口のドアが開き、 ばあちゃんが傘とタオルを差し出してくれた 「これで、体を拭きな」 「いいよ、どうせ濡れるんだから」 「そうかい?狭いけど雨宿りしていかないかい」 「ごめん、明日も早いんだ。」 残念そうなばあちゃんに、1,000円札と40円を渡す。 「私がいうのもおかしいけれど、無理だったかい?」 「まあ…少しずつ減らして、な?」 「それがいいよ」 そう言って、手際よくマルボロの12ミリを2つ紙袋にいれ、 その上からビニール袋をかぶせて渡してくれた。 大きく澄んだ瞳と、白くはなっているが光沢のある髪に、 昔、美人だった面影が感じられ、 動きの一つ一つに品がある。 しかし、甲までカサカサになった手が今までの苦労を語っていた。 しっかり両手で受け取ると、居心地のよさに 後ろ髪を引かれながら家まで走った。
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