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青バラは日曜定休で、それ以外は十九時からオープンしている。マスターの作る軽食はバーで出す食事の域を超えた美味しさだから、早い時間には夕食としてマスターのご飯を食べに来るお客さんで賑わう。多分、遅い時間にバーとして来る客より人の入りが多いと思う。その料理の美味しさとマスターの人柄から、結婚式の二次会やパーティーの会場として使われることもあり、その場合は定休日でも時間外でも予約さえすれば開けてくれる、そんなお店。
そうだ。
私も最初は友達の結婚式の二次会で初めてココに訪れた。
それから通うようになって、ご飯が美味しくていつも食べていた私は、お酒なんてビールしか頼まなかった。
だけどマスターはいつも嬉しそうに、私が食べる姿を見ていた。
「あらヤダっ!? 凛ちゃん!?」
マスターの声と青褪めた顔。
「えへへ……ごめんマスター、早く来過ぎちゃった」
「こんな雪の日に……バカね! ホラ、早く入りなさい!」
買い物をして来たであろうマスターは大きな袋を抱えていた。ドアの横に立てかけた傘はうっすら白くなっている。
雪、いつから降ってたっけ?
「ホラ、頭や肩の雪はらって。今店内暖めてるからチョット待っててネ」
タオルを差し出してくれるマスター。
忙しなくカウンターでガチャガチャ音を立て、湯気の立ったカップを渡してくれた。
「ホットココア。ミルクたっぷりで温まるわよ」
「ありがとう……」
「一体どうしたっていうの?」
「……マスター、この前は……ごめんなさい……」
ココアに私の涙が落ちる。
とてもあったかい。ココアもマスターも。
「ん……あの時はね、凛ちゃんのためって思って言ったつもりだったのよ。傷付けちゃったみたいでワタシのほうこそゴメンね。だけど……気付いてくれたみたいね」
「うん。ごめんなさい、私……私、すごく不安定でグラグラしてたんだね」
「今井君と何かあったの?」
「……っ」
何も無い。何も無いからツラい。ううん、何かあったとしたら、前にココに来た時の私の態度が決定打。
「凛ちゃん、この時間にココにいるってことはもしかしてご飯まだ? 今からワタシご飯作ろうと思ってたの。よかったら凛ちゃんも食べない?」
「食べたい、マスターのご飯」
程なくしていい匂いが広がり美味しそうなチャーハンが出てきた。
「……やっぱりビールかしら?」
クスッとマスターが笑う。私は戸惑いながらも頷き、飲み慣れたビールを喉に流し込む。
「いい飲みっぷり。やっぱりそういう凛ちゃんが好きよ」
「……うん」
また溢れ出す涙。そんなつもりじゃないのに。泣く為に来たわけじゃないのに。
マスターは私の傍で黙って微笑んでいてくれたけれど、ふと時計を見て慌てた。
「あら、もうお店開ける時間だわ。凛ちゃん、実は今日はちょっといつもよりこのお店賑わうのよ。珍しくいつも飲み専門のお客さんがご飯食べたいって言うから……もうすぐ来ちゃうの。凛ちゃんは泣き顔もいいけれど笑った顔で他のお客さんと会って欲しいし、奥のボックス席にいてくれる?」
「うん、ありがとう」
他のお客さんからは顔が見えない席。飲み物とひざ掛けを用意してくれたマスターは、すぐにカウンターに戻りバタバタしている。
迷惑だったかな?
「そんな奥に追いやってごめんなさいね! ワタシは迷惑じゃないから、凛ちゃんも落ち着いたら出てきて一緒に飲みましょうね!!」
心を読んだかのようにタイミングよくマスターが声を掛けてくれる。どうしてこの人はこんなに……そっか、魔法使いなんだった。今井君の言った通り。
――今井君……
視界が曇る。早く涙を止めてカウンターに戻りたい。ここは、寂しい。
「いらっしゃーい。お疲れ様♪ 待ってたのよ~」
「マスター、お土産だよー」
「あらなぁに?」
「この前聡一と旅行に行ってきたの! そのお土産」
「旅行っていうか、俺の研修についてきただけだろ?」
「2人で泊まれば旅行なんですぅー」
この声。
来る予定の客というのは宇和島夫妻だったのか。面識があるだけに涙を見せるのは恥ずかしい。マスターの心遣いに感謝する。
「そうそう、今日はね、もう一人ご飯食べたいってお客さんがいるから一緒にどう?」
「うん、いいよ。どんな人?」
「若くて元気のいい男の子よ♪ もうそろそろ来る頃だと思うけれど」
「楽しみだなぁ、綾乃の好みだったらどうする?」
「聡一みたいな男なかなかいないからなぁー」
「チョットォ! イチャつくならワタシにもイイ人連れてきてからにしてよねェ!」
そして響く笑い声。
こういう雰囲気だから青バラが好き。
“カランカラン”
「おっ、遅くなっちゃいました!」
聞き慣れた男の声。
「そんなに慌てなくても大丈夫よー。あらっ、お尻どうしたの?」
「走ってたら転んじゃって…」
「もう、雪なんだから気をつけて来なきゃダメじゃない、今井クン」
今井君!? どうしてココに……?
「あ、どうもー」
「こんばんは、はじめまして」
「はじめまして! 今井優吾と申します!」
「あはは、堅苦しいよー。仕事みたい。もっとラクにしてー」
「はは……すみません」
「俺は宇和島。こっちが妻の綾乃だよ」
「今井クンはこの二人よりずっと若いけれど、気遣わなくていいわよ~」
「ははは、ありがとうございます! あ、イイ匂い!」
さっき私に作ってくれたチャーハンの匂い。食器の音。談笑。
「ユーゴ君は若いのにこういうお店よく知ってるねぇ」
綾乃さんが何気なく聞く。
「はい、職場の先輩が連れてきてくれて……それ以来たまに一人で来てるんです」
「じゃあそのセンパイ、私達も会ったことあるのかなぁ?」
「アヤノちゃん達、前に一緒に飲んでたわよ!」
「えー? 誰かな?」
「あ、あの子じゃない? 佐藤さん」
「あぁ、凛ちゃん?」
「そうです! 佐藤さんとお知り合いなんですか?」
「うん、前にココで一緒になってねぇ~」
「今井君は、佐藤さんと付き合ってるの?」
聡一さんの質問に今井君が言葉を詰まらせた。
当然だ。ただの職場の先輩との仲を勘違いされたんだ。同期に彼女がいるのに。
「……僕の片想いです」
――え?
「結構積極的にアピールしていたつもりだったんですけど、なかなか気付いてもらえなくて。勇気を出して佐藤さんの好きなお店に連れて行って欲しいってお願いしてココに来たんですけれど――」
「けど?」
「惨敗でした。なんか、惨めな気持ちになっちゃって。僕、カクテルとかあんまり詳しくなくて。佐藤さんみたくスマートに注文すら出来なくて」
「でもカクテルって難しいじゃん。私もよくわかんないのいっぱいあるよ?」
「そうかもしれないですけど、隣で好きな女性はカッコ良くカクテル飲んでて、似合ってて……僕はマスターに助けられないと何を飲めばいいかすらわからなくて」
「だから今井クンはそれからひっそり通って色々覚えたのよね♪ ……でも、カクテルはその日の気分や抽象的な注文の仕方でもマナー違反じゃないって教えたでしょ?」
「はい! もう少し色々な味に触れたら、また佐藤さんを誘ってみたいんです」
「若いなー」と恥ずかしそうにしている綾乃さんは恋愛話が得意じゃないのかもしれない。聡一さんは何かを考え込んでいた。
私のこと好きなの? じゃあ陽子ちゃんは? どうして……?
考えるより先に、勝手に足が動いていた。そして口も。
「もういいんだよ!」
三人が揃ってこちらを向く。
マスターはにっこりと微笑んで、小さくガッツポーズを送ってくれた。
今井君の顔が赤くなる。
「ささささ佐藤さん!? ど、どうして、え……っ!?」
マスターに助けを求めるように私とマスターを交互に見る彼。
私は慌てる彼の元へ歩いていった。自分の飲んでいたグラスを持って。
「ごめんね今井君。私すごく可愛くない女だったね」
「え……?」
「ホントはビール好きだよ私。ココのチャーハンも大好き」
飲みかけのビールを見せる。聡一さんが笑顔をくれた。
「先輩だから、しっかりしなきゃっていつも頑張ってた。カッコイイ先輩って思われてると思うと、イメージ崩しちゃいけないって……そればかり必死になった」
「佐藤さん――」
「私は今井君から見たら先輩で、社内でも長く勤めてる分色々出来るように見えるかもしれないけれど、ホントは足バタつかせてもがいてるの。カッコつけてるだけなの」
マスターがヒントをくれた。
元カレも今井君もサインは送ってくれていた。
「私は……私は、今井君が好きだから、カッコイイとこ見せていたかった。だけど結果的にすごくダメな女だった」
「……佐藤さんは、ダメなとこなんて無いです」
「今井君のこと傷付けたし、私がもっと……」
「じゃあ、完璧じゃなきゃダメって頑張りすぎちゃうところが……ダメかもしれません」
そして彼は笑った。
「佐藤さんも一緒に飲みましょう。僕が覚えた知識、披露させて下さいよ!」
「今井君、いいの? ホントに私のこと……好きなの?」
「~~!! やっぱり聞こえてたんだ……うわー、ちゃんと面と向かって言うつもりだったのに!」
「陽子ちゃんは……? 最近よく飲みに行ってるって……」
「あー、陽子は幼馴染なんです。それで、佐藤さんのこととか色々相談に乗ってもらってて……」
「そ……そうだったん、だ」
なんだか急に恥ずかしくなってしまい、その場に座り込んでしまった。
「り、凛ちゃん!? ヤダちょっと!」
「えへへ……なんか、力抜けちゃった」
「だから踵を浮かせてたら不安定だって言ったじゃない! 男の子、手貸してあげて!」
「今井君が彼氏として面倒見てくれますよ、ね?」
「かれ…っ……は、はい! 佐藤さん、大丈夫ですか!?」
「あはは、ユーゴ君頼もしーい」
その夜は、みんなでチャーハンとビールでプチパーティーが開かれた。
記念撮影だとマスターがデジカメを持ってきたときに私のメイク、特に目元がひどく崩れているのに気付きかなり恥ずかしかったけれど、そんな顔でも変わらず笑顔を向けてくれるみんな、そして今井君の存在に私は嬉しくなった。
「うわー、私達のマグより色気なーい」
そう笑うのは、綾乃さん。
「これが似合うと思って! どう? 気に入ってくれた!?」
「嬉しいです!! うわー、“ザ・常連”って感じですね~!! いいですね! 凛さん!」
「うん、嬉しいー。あ! 見てみて優吾君、底に名前入ってる!」
「わ、ホントだ! マスター、ありがとうございます!!」
あれから暫くして、私は優吾君と結婚することになった。同じ部署で付き合っているのも隠し切れなくなってきたし、ケジメをつけることにしたのだ。私は会社を辞め彼と暮らし始め、今は専業主婦見習いといったところか。
「マスターに聞いたよ。自分で答え見つけて、幸せ掴み取って、強い人になったね。結婚おめでとう」
聡一さんは優しくそう言ってくれた。
「ありがとうございます」
「凛ちゃん、これは私達からー」
「わ、ありがとうございます! って、お鍋?」
「うん、中華鍋~。マスターに負けないくらい美味しいチャーハン作って、私達にも食べさせて♪」
「ふふ、はぁい」
マスターは満足気に私達を見ている。
「式は来月でしょ? もう準備は整ってるの?」
「それが聞いて下さいよマスター! 凛さんがめちゃくちゃ頑固で会場のデザインまだ揉めてるんですよ」
「だって一生に一度のイベントじゃない! 譲れないものは譲れない!」
「あー、ハイハイ、ケンカはナシよー?」
「うぅぅ……」
「どう? 優吾クン。凛ちゃん意外と子どもっぽいところ多いでしょ」
「そうですね。変なところでムキになるし、子どもっぽいところも多くて……嬉しいです!」
「……あらあら♪」
私は顔が赤くなっていた。いいんだ、先輩じゃなくても。色んな私を受け止めてくれる人に出逢えたんだ。
宇和島夫妻のマグの横には、私達のペアのビールジョッキが並べられるようになった。
今はペアに嫌な顔なんてしようと思っても出来なくて、綻ぶ顔も隠せない。
そこだけ計算されたインテリアを崩すけれど、そういう崩し方はイヤじゃないな、って思えた。
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