第一話

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第一話

 俺は今、ボロアパートの六畳一間で、いかつい風貌の男と二人でいる。  テーブルを挟んで向い合せに座った俺達は、互いに無言のまま、ただ時間だけが過ぎていた。  黒いスーツを着たその男は、色の濃い眼鏡のせいで、その表情も読み取れない。  そして、テーブルには薄っぺらい封筒と、ラッピングされた小さな箱が並べられている。  それらは俺に対する謝礼だそうで、男はそのどちらかを選んでほしいと言ったが、俺はどちらも選べずにいた。  昨日、横断歩道を渡る俺の前を一人の老婆が歩いていた。  目の前で派手に転んだ老婆を起こしてやると、落ちているバッグも拾って歩道まで付き添ってやった。  老婆とはそこで別れたが、その時、俺は名前も言わなかった。  今日になって突然やって来たこの男は、有名な大企業、新野(しんの)ホールディングス創設者の妻・新野セイの使いだと名乗ったが、その新野セイがあの老婆だったようだ。  だが、どうやって俺の家が分かったのか?  男が言うには、あの時、老婆は間違えて俺の財布を持ち帰ったらしい。  その中にあった免許証から、ここに辿り着いたってわけだ。  男は謝罪しながら財布を返してきたが、この時まで俺は財布がないことに気付きもしなかった。  そのあと、男はアタッシュケースから取り出したものをテーブルの上に乗せた。  老婆を助けた謝礼と、俺の財布を持ち帰ってしまったことに対するお詫びだそうで、男はその見た目に反して紳士的な振舞いだった。  今日、この男がやって来るまで、昨日のことなどすっかりと忘れていたが、もしもそれが本物の謝礼だとしたら、俺はありがたく受け取っていただろう。  ただ、俺には……それをもらう資格はない。  なぜなら、昨日起きた出来事は、それだけではなかったからだ。
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