お隣さんは

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お隣さんは

「ほらほら康介、ぼーっとしてないで早く手を動かしてください」  窓から見える青空を眺めていた康介は、松雲に急かされて慌ててドライバーを握り直した。松雲の言うとおり、まずは家具作りに専念しなければ。なにしろ今のこの新居はベッドすらないがらんどうなのだ。  急行スケジュールとなった新居探しだったが、なんとかピンと来る部屋を見つけることができた。広さは七畳の1K、キッチンとバス・トイレ付き、日当たりが良く、階数は二階。そして角部屋。  新居となるアパートは、外観こそいかにも「学生の下宿用アパート」といった風情の素っ気ない建物なのだが、エアコン完備でコンロも二口付いており、さらにオートロックまで設置されているという優良物件だ。一階に四部屋、二階に四部屋の全八部屋で、建物の真ん中に設けられた内階段によってそれぞれ二部屋ずつに分けられている。ちなみに隣室には人が住んでいるらしいので、家具の組み立てが終わり次第、騒がしくしたお詫びを兼ねて挨拶に行くつもりである。 「さあ、頑張らないと日が暮れちゃいます。今日から君はここで暮らさなきゃならないんですから」  組み立てている途中のパイプベッドの脚を押さえながら、松雲がぷりぷりと声を張り上げる。今日の彼は珍しくTシャツ姿である。着物の方が慣れているからむしろ動きやすいというのがいつもの彼の弁だが、さすがに着物で重労働をする気にはならなかったらしい。あまり見慣れない姿なので少し新鮮だ。 「はいはい、分かってるって」  康介はぐりぐりとドライバーを回してネジを締めていく。反対側の脚のネジを松雲から受け取ったとき、松雲がふと「でも」と呟いた。  手の中の小さなネジから目の前の松雲へと視線を移す。  松雲は、まっすぐに康介を見つめていた。 「いつでも帰ってきていいんですからね。あの家はこれからもずっと、紛れもなく君の家でもあるんですから」  それは、いつになく神妙な声音で。  はっとして、康介は目を見開いた。  松雲と暮らし始めたのは、康介が九歳のとき。  交通事故で康介の両親が他界した。  激しい雨の降る日だった。当時、康介は少し離れたところの私立小学校まで電車で通学していたのだが、その日康介は傘を持たずに出かけていた。朝、家を出たときにはまだ薄曇りだったから。 『傘、持って行かないの?』  背中にかけられた母の声に、康介は「だいじょうぶ」と答えた。朝食のマーガリンがたっぷり塗ってあるトーストをかじりつつぼんやり見ていたテレビの天気予報は、夕方までずっと曇りだと告げていた。雨なんて降らないと信じきっていた。  父と母は、駅まで迎えに来てくれようとしていたらしい。バケツをひっくり返したような雨だから、傘を持たない子どもが歩いて帰るのは可哀想だと思ったのだろう。父はその日ちょうど仕事が休みの日だったから、もしかしたらその足で夕食を食べに出かけるつもりだったのかもしれない。  けれど、二人は来なかった。  交差点で信号無視をしたトラックに突っ込まれたのだ。激しい雨だった。視界は悪いし、道は滑る。二人が乗っていた、康介のお気に入りだった父の白い車は、ゴミに出された空き缶のようにペシャンと潰れていたらしい。病院で大人たちがひそひそと話しているのを、康介は少し離れた場所で聞いていた。  父は母子家庭で育っており、その祖母はすでにこの世にいない。母は遠方から嫁いで来ていたし、実家との折り合いはあまり良くなかったらしい。つまり、康介にはほとんど身寄りがなかった。  一人になったという実感はまるでなかった。ずっと夢の中にいるような心地で、病院にいても、遠い親戚だというおばさんの家にいても、何をしていても現実味がなかった。泣くことすらできなかった。  困ったね、可哀想に。誰もが口々にそう言うが、誰も正面から康介と目を合わそうとはしなかった。きまり悪そうに逸らされた彼らの目には、自分の領域に厄介事を持ち込みたくないという拒絶の色が透けて見えていた。家に置いてくれていたおばさんでさえ、ほとぼりが冷めてからの対応を考えあぐねているのがその雰囲気からはっきりと伝わってきていた。冷たいとは思わない。今にして思えば、当然だとすら思う。  けれどそんな当然は、ある青年の一声で打ち壊された。 「康介くん。よかったら、私と一緒に暮らしませんか?」  お葬式のあと、親戚たちが集う座敷の隅で影のように立ち尽くしていた康介の前に現れたのは、黒い着物に身を包んだ男だった。歳は二十代半ばごろだろう。少し茶色がかった穏やかな瞳が印象的な男だった。  あっ、と思わず声がもれる。その男の姿は、何度も写真で見たことがあったのだ。  たしか、母の従兄弟で、本を書いている人。『松雲はね、すごいんだよ。いっぱい本を書いてるの。お母さんの自慢の従兄弟よ』  さまざまな写真を見せてくれながらそう語っていた母の声が頭によみがえる。その写真に写る男も、目の前の男と同じで着物を着ていたし、穏やかな目元がひどく印象的な人だった。 「小説家の松雲?」 尋ねると、男は 「そうですよ。知っていてもらえて光栄です」 と優しく微笑んだ。その目の中には、拒絶の色も哀れみもなく、ただひたすらに凪いだ夕焼けの海のような穏やかな温もりだけが感じられた。  康介は目の前に差し出された手をおずおずととった。ふわりと包みこむそれは、とても大きくて、あたたかかった。  そのとき、康介は両親を失ってからはじめて大声を上げて泣いたのだった。  あのときと何ひとつ変わらない穏やかな温もりを湛えた瞳を、康介もまっすぐに見つめ返す。 「うん。分かってるよ」  康介は、こっくりと大きく頷いた。  その言葉があれば、大丈夫だ。そんな言葉をくれるこの人がいるから、大丈夫だ。  今は何もないこの部屋だけれど、きっとここで暮らしていける。 「ならよかった」  にっこりと目を細めて笑う松雲を見ながら、康介はそれを確信していた。 「ずいぶんと部屋らしくなりましたねぇ」  完成した家具をそれぞれの場所に配置し終わったばかりの、できたての部屋を二人でぐるりと見回す。顎に手を当てながら松雲が感心したような声を上げた。康介も大きく頷く。 「うん。手伝ってくれてありがとな」 「おや、君が素直だと不気味ですね」  くすくすと笑われ、きまりが悪くて康介は唇を尖らせた。  窓から射しこんでくるオレンジ色の夕陽が、できたばかりの部屋を柔らかに照らす。西日がきついわけでもなくちょうどいい塩梅だ。オレンジ色の光に包まれた部屋は、なんだかこれまで暮らしてきた実家のように安心感があった。  窓の外からは、家に帰る途中であろう子どもたちの元気な声が聞こえてくる。もうすっかり日が暮れてしまっていた。 「さっ、私はもう帰りますね。帰ってまた原稿を書かなくちゃ」  松雲は両腕を上に突き上げて伸びをしながら腰を上げた。テレビボードに置いた時計を見ると、時刻は五時を少し過ぎたところであった。 「締切、破らないように気をつけるんだぞ」  書けない書けないと言って喚く松雲を叱咤していたこれまでの日々を思い返して忠告する。すると松雲は「耳が痛いことを言いますね」と渋い表情で両耳を押さえた。 「体調管理に気をつけて。春とは言えまだまだ寒いですから。ゴミの日を種類ごとにきちんと覚えてゴミ出しするのですよ。それと食事はきちんと摂るように。まあ、君は料理が得意だから大丈夫でしょうけれど」  玄関を出てからも小言を連ねる松雲に、康介は苦笑をもらす。心配してくれているのだときちんと理解しているぶん、気恥ずかしさがこみ上げてくる。 「松雲こそ、カップ麺ばっかり食べてちゃダメだからな」 「善処します」 「じゃ、また。ゴールデンウィークには帰るから」 「はい。いつでも待ってますからね」  優しく微笑む松雲に、康介もまたにっこりと笑ってみせる。  手を振りながら去っていく後ろ姿が見えなくなった頃、康介は静かにドアを閉めた。  玄関から部屋の中へと戻りつつ、今からの予定について考える。  そろそろ夕食の準備をしようか。昼間のうちに近所のスーパーで買い出しを済ませておいたしキッチン用品もすでにそろえてあるから、今すぐにでも準備に取り掛かれる。いやその前に、お隣さんに挨拶をしに行っておいたほうがいいかもしれない。あまり時間が遅くなってはいけないし。  そう考えて、康介は部屋の隅に置いていた、手土産の入った紙袋を手に取る。中身はベタに洗濯用の洗剤だ。ずっしりとした重さを指に引っ掛けながら、さっき閉めたばかりのドアを開ける。そしてたった数歩の距離にある隣の部屋のドアの前に立った。  康介は人見知りではないし、初対面の人と話すのもそんなに抵抗はない性格だ。図太い、と言われる神経は人間関係においても発揮されている。  なんの迷いもなく康介はポチッとインターホンを押した。気の抜けたような電子音が響く。  しばらくして、ドアの向こうから人が歩いてくる音がした。足音がすぐ近くになって、ガチャリとドアが開かれる。 「……はい」  ぶっきらぼうな声とともに、若い男がゆっくり顔を覗かせた。  その顔を見て、康介はハッと息を飲む。  信じられない。まさかこんなところで。短い言葉が目まぐるしく頭の中を渦巻く。  そこにいたのは、入試のときに一目惚れしたあの綺麗な黒髪の彼だった。  「あっ」  あんぐりと開いた口から思わず声がもれる。  混乱する脳みそはまともに働いてくれないけれど、それでも、目の前にいるのはどう見ても間違いなくあのときの彼だ。頭の中で何度も何度も反芻してきたその姿を見紛うはずがない。  言葉が出ずに、康介は口を開けたまま立ち尽くす。  すると彼は怪訝そうに形の良い眉をひそめた。疑うような視線を向けながら半歩後ずさった彼に、康介は慌てて声を発した。 「あっ、えっと、隣に越してきた芝崎です。これ、粗品ですけどよかったら貰ってください」 「どうも」  薄く口元に浮かべられた愛想笑いと無機質な声音に、つきりと刺すように胸が痛む。  素っ気ない対応だけれど、きっと当然だろう。一ヶ月前の入試のときにたった一回会っただけの、名前すらも知らない人間なんて覚えているはずがない。落胆しつつも、それを表に出さないように慎重に表情を繕いながら手に持っている紙袋を差し出す。  おずおずと差し出したそれを彼の長い指が受け取る──寸前で、ドサリと紙袋が落下した。 「あっ、すみません!」  緊張していたせいで上手く受け渡しができなかったのだ。康介は慌てて身をかがめて、二人の真ん中に落ちた紙袋を拾い上げようとする。 「いや、大丈夫です」  けれど、素早く伸ばされた彼の手が康介よりも先にそれを掴み取った。  そのとき、かがんだ彼の丸い背中がぴくりと揺れた。ゆっくりと顔を上げた彼は、その涼しげな瞳を見開いている。  どうしたのだろう。康介は小さく顎を引いた。  すると、彼が桜色の唇をニヤリと曲げて笑った。 「やっぱりおにぎりは転がった方が縁起よかっただろ」 「えっ!」  告げられたのは、思いもよらない言葉だった。 「お、覚えててくれたの……?」  信じられない気持ちで康介は尋ねる。  彼はドアを閉めて外に出てきてくれたから、少しくらいは会話する気があるのだろう。  それにしても、紙袋片手にただ立っているだけなのにまるでモデルか俳優のように見えてしまうのは惚れた欲目というやつだろうか。ありふれたグレーのパーカーと黒いスウェットパンツすらどこか有名な店の高級ブランド品に見える。 「まあ。盛大に荷物散らばってたし、間が悪いなぁって」 「へ、へへ……」  その通りとは言え辛辣だ。康介は苦笑いしながらぽりぽりと頭をかいた。 「ガッチガチに固まってたから、よっぽど緊張してんだなって思ってたんだけど」  彼がじっと康介の顔を覗きこむ。痛いところを突かれた気分になり、思わず目を逸らした。あのとき固まっていたのは緊張のせいではなく、目の前の彼に心を奪われていたからだ。気恥ずかしさといたたまれなさでじわじわと頬が熱くなる。  すると、彼がくすりと笑った。 「でも、合格したんだな。おめでとう」  ひどく柔らかな声だった。ハッと彼を見ると、彼は穏やかな笑みを浮かべていた。  形の良い眉がかすかに下げられているのも、桜色の唇がうすく開いているのも、今までの怜悧ともいえるほどの涼やかさとは違った一面を感じさせる。顔立ちが整っているから、ふとした仕草や表情のすべてがそのままポスターにでもしてしまえそうなほどに絵になる。どうしたって目を奪われてしまう。  ぼうっと見入っていると、彼が不思議そうにこてんと首を傾げた。康介は慌てて口を開く。 「あっ、ありがとう──ていうか、あの、本当にありがとう」  下手くそな言葉に、目の前の彼がますます首を傾ける。  もう一度会いたいと願い続け、改めてお礼が言いたいと思い続けた人に会えたのだ、きちんとあの日の感謝を伝えたい。康介は必死に言葉を探して組み立てる。 「俺が合格できたのって、たぶん、君のおかげなんだ」 「え?」 「君が参考書とかを拾ってくれたから、それまでの緊張が吹き飛んだんだ。だから、ありがとう」  そう告げながら、康介は頭を下げた。すると頭上でふふ、と小さく笑う声が聞こえた。 「こちらこそ、おにぎりありがと。まさかあんなもの貰えるなんて思わなかったから驚いたけど、助かった」  「いやいやこちらこそ……っていうか君も合格だよね、おめでとう」  「ん、ありがと」  軽く顎を引くようにして頷いた彼は、それからそっと小さく目を伏せた。長いまつげが頬に淡い影を落とす。言い淀むみたいに、まつげの向こうの黒い瞳がゆらゆらと泳いでいる。  どうしたのだろう。康介は内心で首を捻る。  そんな数秒の逡巡のすえに、彼は唇を一度きゅっと引き結んだ。そして、意を決したように口を開く。 「なあ、あの着物の人って……」  気まずげに目を逸らしながら告げられた言葉に、康介は思わず苦笑をもらした。なんだ、そんなことか。胸の内で呟く。  彼にはあの入試の日、駅で帰りの電車を待っているときに、松雲と一緒にいるところを見られている。和装という今時珍しい格好をしている松雲はいつもどこにいても注目を集めるから、彼が覚えていたとしても不思議はない。  今、彼が訊きたがっているのは、今までも何度も問われてきた『あの人は何者?』ということだろう。  それは、着物姿という風変わりな松雲の格好のことでもあり、どう見ても父親には見えない松雲と康介の関係のことでもある。松雲は三十三歳という若さに加えて、けっこうな童顔なのだ。二人で並んでいても間違いなく親子だとは思われないし、しかし兄弟というには歳が離れすぎている。  親戚であり養父である、といういつもの答えを口にしようとした、そのとき。  目の前の彼がふと顔を上げた。  その涼しげな目には、どこか切羽詰まったような、縋るような色が浮かんでいた。まるで、迷子の子どもが周囲を見回して助けを求めるような。  それまでの飄々とした態度を覆すような目の色に、大きく心臓が跳ね上がる。康介は小さく肩を揺らした。  けれど、それは一瞬のうちにかき消された。  彼はふっと笑った。その細められた目には、すでに切迫も縋る様子もまったく感じられない。それまでと何ら変わらない黒い瞳を、彼は静かに細める。 「あの人、着物がすごく似合うよな」  どこか遠くを見ながら、彼が微笑む。  見えない何かを見つめるようなその眼差しになぜか胸がざわついて、「え?」と問い返そうとする。けれど、その声は彼の声によってかき消された。 「なあ、もしよかったら仲良くしてくれる? 大学も同じだし、家も隣なんだし」  それは願ってもいない提案だった。  まさか彼の方からそんなことを言ってくれるなんて、考えてもいなかった。パッと視界に金色の光が射し、ドキドキと痛いほどに心臓が高鳴る。康介は勢いよく何度も頷いた。 「もっ、もちろん! こちらこそ、これから仲良くしたい!」  食い気味で一歩詰め寄りながら告げると、彼は少しだけ呆れたみたいに笑った。  二人の間を、少しだけ肌寒い春の風が通り過ぎてゆく。 「俺は高倉涼(たかくらりょう)。これからよろしく、な」
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