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ガタンゴトン。気がつけば電車に乗っていた。
夢なのか現実なのかますますわからないまま、車輪の音に促されて、俺はうっすらと目を開けた。
「隣に座ってもいいですか?」
視界の端に、淡いブルードットが揺れる。
目の前に立った女性を見上げると、彼女は柔らかく微笑んだ。思わず目を逸らしてしまうほど、きれいな人だった。
車両の中を見渡すと、他には誰もいない。俺と彼女の二人だけだった。
席ならたくさん空いているのに、どうしてわざわざ俺の隣に?
疑問に思いつつも、断る理由もなかったので、俺は返事を待っている彼女に頷いた。
窓の外は暗く、乗っている乗客の少なさから、終電が近い時間なのだろうか、と
考えていると、彼女から視線を感じた。
目が合うと、彼女は「ごめんなさい、見すぎですよね」と照れたように笑って、肩からかけたショルダーバッグを座席に置いて、俺の隣に座った。
「私、今から帰るんです」
そりゃこんな時間だし、誰もが家に帰る時間だろう、と思った。
わざわざそれを明言した彼女に、俺は「はあ」と気のない返事をしてしまう。
「なかなかこっちに来られなくて」
「どちらに住んでるんですか?」
なぜか彼女は困ったような顔をしたので、俺は聞いてはいけなかったのかと
あたふたして、別の言葉を探した。
「こちらでは、ゆっくりできました?」
「はい。お盆はいいですね。家族に会えたんです」
そう言われてから、俺は今がお盆であることを知った。
だとしたら、終電近いこの時間でも、電車に乗っている人がこんなにもいないものなんだろうか。
この女性と同じく、ぎりぎりまで家族との時間を満喫したいと考える人がちらほらいそうなものだが……。
「だけど、一人だけ。会えなかった人がいて」
彼女は少しむくれて言った。
「私は会いに行ったのに、向こうが会いに来てくれなくて。ひどくないですか?」
「……ひどい奴ですね」
「結局は、帰る間際に会えたんですけどね」
「そうなんですか。よかったですね」
「はい。よかったです」
この女性はなぜ、初対面であるはずの俺に、こんなにも慈しむような笑みを見せてくれるのだろう。いや、俺が特別というわけではなく、誰にでもこんなふうに笑う人なのかもしれない。
そうに違いないと思っても、俺は彼女の柔らかく細められた目にどきどきしていた。
「でも彼、本当にひどいんですよ。私の式のときに顔を出してくれなかったんですから」
この人、結婚してるんだ。
俺はなぜか過度なほどショックを受けた。
初対面の自分がこんな気持ちになるのだから、その「ひどい彼」はそうとうなショックを受けたのではないだろうか。
「……好きだったんじゃないですか、君のこと」
動揺するかと思われた彼女は、意外なことに頷いた。
「はい。好きでいてくれました」
「それは、彼も落ち込むと思います。俺だって彼と同じ立場なら落ち込みますよ」
「そうですよね……」
それまで笑みを湛えていた彼女の表情が曇って、俺はまたあたふたとする。
「でも、彼とまた会えたんですよね。よかったじゃないですか」
笑みがなくなった彼女に代わり、今度は俺が精一杯、こけた頬で笑った。
その顔がよほど不気味だったのか、彼女の目に涙がきらりと光った。
「す、すみません。怖がらせてしまいましたね」
慌てふためく俺に、彼女が何度も首を振る。
「違うんです、怖かったわけじゃないんです」
ガタンゴトン、と電車が揺れる。
その振動で、彼女の目から涙が一粒零れた。
「彼、私のこと覚えてなかったんです」
彼女の言葉に、俺は驚いた。
こんなにきれいな人を忘れるなんて。ましてや自分の好きな人を……。
「だけどこれは、彼はひどくない。
……ううん。本当はなに一つ、彼はひどくなんてないんです。
私が悪いんです。私が、突然彼の前からいなくなったから」
「突然、って?」
聞き返すと、彼女は急に骨の形が浮き出るほど細くなった俺の手を取った。
どきっとしたのも束の間、そのあまりにも冷たい手に、俺はぞっとして体中に鳥肌がたった。
彼女の潤んだ瞳が切なげに揺れて、花びらのように美しい唇が、そっと動いた。
「死んだんです、私」
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