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「穂香……」
すべてを思い出した俺が彼女の名前を呼ぶと、とたんに彼女は泣きそうな顔になった。
「思い出してくれたの? 悠真」
我慢できずに溢れた涙が、彼女の頬を伝って零れ落ちていく。彼女は鼻をすすって言った。
「もう会えないのかなって思ってた。
悠真に名前を呼んでもらえないのかなって思ってた。
……だけど、会えたね。名前、呼んでくれたね」
俺は嗚咽を漏らしながら、震える手で穂香の体を思いきり抱きしめた。
彼女の冷たい体に命が再び吹き込まれますように、なんて無謀なことを祈りながら。
「いなくなって、ごめんね。一緒に生きられなくてごめんね」
穂香の上擦った涙声に喉の奥が熱くなって、俺は頭の中に浮かぶ言葉をなに一つ
うまく言うことができなかった。必死に首を振ることしか、できなかった。
「大好きだよ、悠真。本当に、大好き。大好き……」
俺の耳元で、穂香は何度も何度も繰り返した。
うまく発音できない「大好き」を、俺も同じ数だけ返した。
「大好き……だから」
抱き合っていた体を離して、彼女は俺のこけた頬に触れ、涙をこすって目元にできたかさぶたを慈しむように指先で撫でた。
「お願い。私のぶんまで、生きて」
彼女のその願いが俺にとってどれだけ残酷なものなのか、きっと彼女はわかっている。その上で、俺が生きることを願っている。願って、くれている……。
「悠真、あなたはこれ以上、この電車に乗っていてはダメ。
この電車は、あの世行きだから……悠真まで、死んでしまうから」
それでも離れたくなかった。彼女の言葉なんて無視して、このまま彼女を抱き
しめたまま、一緒に行きたかった。
穂香は俺の心を見透かしたように、俺が口を開く前に先回りして言った。
「……私ね、観たかったアクション映画があるの」
まさか穂香がこの場面でそんなことを言いだすなんて思いもよらなかった俺は
驚いた。彼女はそんな俺の驚き顔などどこ吹く風で、続ける。
「ほら、もうすぐ日本で初上映されるって楽しみにしてた、アメリカ制作の
アクション映画。それを、悠真に観てほしいの」
「一人で観てもしかたないよ。俺は、穂香と観るのが好きだったんだ」
「しかたなくないよ。どんなだったか、私に教えてほしいの」
「教えることなんてできないじゃないか。君はもう……」
死んでるんだから。
それは、言葉にできなかった。
「また来年のお盆に会いに来るから。そのとき、悠真に私の姿は見えないだろう
けど、私は必ず、あなたの隣にいるから」
だから、と彼女は寂しそうな笑みを揺らした。
「教えて。ずっとはそばにいられなくなった私に。
だけどお盆の間だけ、悠真の隣にいる私に。
アクション映画のことだけじゃなくて、一年間のあなたを……」
これは穂香の精一杯の強がりだと、そのときになってようやく俺は、彼女の笑っていながらも寂しそうな表情から感じ取った。
俺は自分の気持ちしか考えていなかった。穂香がどんな思いでこの電車の終点に
向かっているのか、考えてあげられなかった。
一緒にいたい気持ちを押し殺して、俺に前を向かせようとしてくれている。
生きることを願ってくれている。
涙が溢れて、力任せに服の袖で拭おうとすると、穂香がそれを止めた。
「ダメだよ悠真。血がでちゃうでしょ」
座席に置いたショルダーバッグからハンカチを取り出して、穂香は俺の涙を優しく拭いた。
目と目が合う。泣いてばかりの俺に、穂香はふわりと微笑んだ。
ああ、好きだなぁ。
滔々と心に流れ込んでくる思いを噛みしめるように、一度、ぎゅっと目をつむった。
瞼の裏には、いつでも背中を押してくれた彼女の笑顔がしっかりと焼きついている。
そしてそれは、彼女の願いを蔑ろにしようとした俺の手を、優しくひいてくれて
いる気がした。
「日記、つけるよ。穂香に聞いてもらいたいこと、ささいなことでも忘れないように」
「楽しみにしてるね」
安心したように笑って頷いた彼女に、俺も笑い返す。
「悠真と一緒にいられた時間は、たくさんのありがとうでいっぱいだったよ」
「俺もだよ。たくさんありがとう、穂香」
ガタンゴトン。意識が遠ざかっていくと同時に、車輪の音と彼女の声も小さくなっていく。
最後まで、彼女に触れていたかった。たとえそれが冷たくなった体でも……。
視界がブラックアウトしていく中、手探りで抱きしめる。彼女の手が背中に回る感触と一緒に、耳元で優しい声が聞こえた。
「またね、悠真」
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