黄泉に捧ぐ恋物語

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生涯ただ一度で良いから、これを書く為に自分は生まれてきたのだと思えるくらいの類まれなる物語を書き記したい。 その為に、突き落とされたまま二度と這い上がる事も出来ぬ極上の悲しみを味わってみたいという僕の欲望は、きっと異質なものなのだろう。 さち子と物語の他には何も生きる()()を持たない僕にとって、彼女の死こそがこの願いを叶えてくれる唯一の方法だった。 そして、彼女の命を奪うのは他でもない僕自身でなければならないのだ。 愛する者を永久に失う―――それはきっと筆舌に尽くしがたい悲しみであるに違いない。 魂の片割れとも呼ぶべき相手を死に奪い去られた者達の悲哀の嘆きは、古今東西の物語で語り継がれている。 さち子、と呼びかけても朗らかな返事をしてくれる事は二度と無い、物言わぬ彼女の亡骸を見下ろして、僕は泣かない事があるだろうか。 泡沫(うたかた)の様に呆気なく消えてしまったさち子の命、そして自らの手で彼女を殺めてしまった後悔に、つめたくなった彼女を抱き寄せて、悲しみが湧き上がるまま慟哭せずにはいられないだろう。 しかし、この悲しみこそ、僕が欲して止まないものなのだ。 さち子の柔らかな指の骨を削って作られたペン先に、あどけない鼓動を刻む心臓を満たしていた純な血潮のインクを浸して、僕が精魂込めて書き上げる物語。 嗚呼、それはどんなに汚れの無く麗しい、完璧な恋物語になるだろうか! そして、僕は書き上げた物語を誰よりも先に、黄泉の国で聞いているであろうさち子に向けて読み上げよう。 それが叶えば、僕の生まれてきた意味は全て果たされるだろう。 僕がこんな事を考えている事も、さち子は(つい)ぞ知るまい。 そう思うと、無性に目の前のさち子が愛おしくてならず、腕の中に彼女を抱き寄せていた。 「僕は僕の為だけでなく、君自身の為にも究極の物語を書きたいと思っているんだ」 僕の囁きに、さち子の鈴を張ったような目が(にわか)に曇る。 「でもあたし、貴方がそんなに素晴らしいお話を書こうとなさるあまりに、貴方自身が悲しみに飲み込まれてしまわれるなんて、(いや)だわ。あたしのお慕いする貴方には、いつも笑顔でいてほしいのだもの」 そして、いたわりに満ち満ちた手付きで僕の頬に触れるさち子の手――― ふと、僕はいつまで経とうと、黄泉に捧ぐ恋物語は書けないのではないか、という予感が頭をもたげた。 しかし、それはそれで悪くないな、とさち子を抱き締める腕にさらに力を込めて思う。 その体は、生き生きとした幸福な温かさに満ちていた。
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