白月

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 さわさわと柔らかな風が耳許に心地よく触れる。  その風に乗って微かに鼻腔に触れる伽羅の香が客の訪ないを告げた。 『如何がした?......らしからぬ設えなどをして』  風に乗って鈴を転がすような円やかな声がクスクスと忍び笑いながら問いかける。 「平四郎どの......今宵は仲秋ゆえの、月でも眺めようと思うてな」  常陸佐竹氏の居城、太田の舞鶴城の天守。板張りの床には緋の毛氈が敷かれ、七草を活けた水盤の傍らに、三宝に月餅、それと栗や芋の盛られた器の傍らには、銚子と盃の膳が添えられている。  そして、見た目にも厳つい強面の男がただひとり仲秋の月を前に座っていた。  傍らには円座がひとつ。真ん中に木彫りの小さな兎が丸い目でちょうど天頂に差し掛かった望月を見つめている。 『観月......というには浮かない表情(かお)じゃな。なんぞあったか?』  木彫りの兎はふうわりと朧な輪郭の若衆に姿を変え、男の顔を覗き込んだ。  かつては蘆名盛隆といい、美貌で知られた会津黒川城の城主の亡霊の顔を男は改めて見つめた。  玻璃のように煌めく切れ長の濡れた瞳は黒曜石を嵌めたように深く、その唇は紅を差したように艶やかな微笑みを湛え、だが白磁の肌はもはや触れることも出来ない。  幽世に棲まうかつての情人は永劫の呪いのままに若く美しい。  かつて常陸国を治め、鬼義重と呼ばれた男の老いを刻みつつある血管の浮き出た手に、そっとそのしなやかな手が重ねられる。 「時の流れは酷いものじゃ。世の移り変わりは容赦ない」  男は、くいっと盃の酒を干した。 「わしは、倅に科を負わせてしもうた.....」 『科じゃと?』  怪訝そうに影が眉をひそめる。 「我らは頼朝以前の源氏の嫡流として全き武士(もののふ)として生きてきた。それを曲げることはどうしても出来なんだ。それゆえ、倅に辛い役目を押し付けることになってしもうた」  男は、今一度、盃を煽った。 「暗殺を......させてしもうた」 『暗殺?』  影の声音に剣呑な気が混じった。無理はない。彼は彼を除こうとする者の諜略によってそれとは判らぬように弑されたのだ。  真相を知る暗殺者もその場で成敗され、真実は闇の中に葬られた。 「南方三十三郡の領主をな、誘い出して滅したのだ」  ふぅ、と男は深い息をついた。  この常陸の国の支配は土地ごとの国人衆がそれぞれ独立を保ち、合意をもって協調を図って保たれてきた。 『何故に.....?』  影の問いかけに男は眉間にいっそう深い皺を寄せて唇を歪めた。 「サルめが、天下を取ったからよ。信長公の亡き後の跡目争いを凌いで天下人に成り上がりよった」 『あの草履取りだった男か』  影が生きていた頃、噂には聞いたことがあった。並々ならぬ才覚で百姓であった男が草履取りから織田信長の一番の腹心となった、という。 「確かに才覚はあろう。が、あやつには武士の誇りも仁義もない」  吐き捨てる男に影は小さく苦笑い、あやすように囁いた。 『もとより武士の系譜に無きものに仁義などあろうはずも無かろうに。そなたは生粋の武辺者じゃ。膝下に下るは難しかろう。それゆえ、次郎殿に家督を譲って佐竹の舵取りを任せたのであろう』 「しかし......」  太閤、豊臣秀吉の支配には礼も仁義も無かった。関東の雄、北条氏の支城を攻めるにも兵糧責め水責めという、生粋の武士であれば恥じて成さぬ手だてを容赦なく駆使して滅亡に追い込んだ。 『信を裏切っても、家を汚したと謗られても、家を残すことを倅殿は選んだのじゃ。それをさせたは義重殿、そなたではない。世の流れじゃ。倅どのは我が手を汚しても家を残すことを選んだのだ。この常陸の民を選んだ』  影は、ふっ......と男の肩を抱くように身を寄せた。 『倅殿は、そなたを穢したくなかったのじゃ。生粋の板東武者として生きてきたそなたに、サルなどのために晩節を汚して欲しゅうはない、との願いから自ら策を使うたのであろう』  影は、ふうっと息をついて半ば呆れたように言った。 『伊達にも我が義父、蘆名盛氏にとっても、いやこの乱世を凌ぐには当たり前のように諜略・謀略を使ってきた。それを全くせぬで、ここまでそなたが家を保ってきたは奇跡のようなものぞ。いや、鬼義重であればこそ出来た、荒業以外の何物でもないわ』 「わしはそんなに化け物か」 『おうよ。でなくばなんとしよう。佐竹義重は真の鬼であったと後の世にまことしやかに伝わるに相違あるまいよ』 「そうか真の鬼か......」  男は影の言葉に思わずつられて口元を緩めた。が、ふっとそれは哀しげな表情に変わった。 「真の鬼であれば、そなたを拐うことも出来たであろうにな.....」  ほつりと溢れた言葉に影が小さく頭を振った。 『らしゅうないことばかり仰せになるな。さては老いられたか』 「おうよ、わしも老いた。あの世で会うたら、そのような爺など、知らぬとつれなくなされるな」 『するものかよ』  影の唇がふと頬に触れた。 『わしは全てのしがらみから放たれて、せいせいとそなたの生きる様を傍らにて見ておる。そなたの老いは老いることも出来なんだ我れには羨ましい』 「済まぬ.....」  男の目からぽとり、と一粒、滴が落ちた。 『鬼の目に涙か......似合わぬのう』  影の指がその滴を拭うように頬をなぞった。  そして、静かに笑いかけた。 『生きてもがくも命あるうちぞ。存分にもがかれよ。我れはいつでもそなたの傍らにおるゆえ......』  つい、と影の指が櫓にはためく旗印を差した。五つ骨の扇の中央には望月がくっきりと、今宵の月を映したように揺れていた。 『武田も滅びた。甲斐源氏の血を絶やすわけにはいくまい?』  男は深く頷いた。 『際ものはいずれ去る。世がどう変わろうと本流は残らねばならぬ』  影の言葉に男の口元が再び苦い笑みを浮かべた。   「残れるかのぅ.....」 『残れる』  言い放つと、影はふわりと自らの唇を男のそれに重ねた。 『我れがついておるではないか』 「そうじゃな......」  男はゆっくりと影を抱きしめ、床の上に崩れ落ちた。  現世と幽世の狭間に折り重なる二つの姿をしらしらと仲秋の望月だけが静かに照らしていた。
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