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9. じゃあそういうことで
大澤さんの家は暖かくて居心地が良かった。移動した翌日にはかなり体が軽くなったが、自分の部屋に帰ると言うと、週末はいてくださいと頼まれて、断りきれずに泊まった。
夜中、大澤さんがリビングに入ってくる気配で目が覚めた。明かりもつけないまま、ソファーベッドのそばまで来て、しばらく待っても何も言わないので、大澤さん、と呼んだ。
「あ。起こしたかな」
「起きてました」
彼はベッドに腰を下ろして、俺が起きあがろうとするのをそっと押し戻し、キスをした。
「うつるよ」
と言っても返事はない。
大澤さんのキスは、牧歌的でのんびりした感じで始まる。いつもはゆっくり荒々しくなり、こっちが焦れて他のことを(服を脱ぐとか彼のを触るとか)をし出すまで長い間続く。
今夜は優しいままで、でも俺は熱くなり、
「しよう」
と囁いた。
「だめ」
「えーっ」
「病み上がりは、おとなしくしてないと」
そう言いながら、彼は掛け布団をめくって横に潜りこんできた。俺が抱きついて部屋着越しに体温を感じるくらい力を込めると、大澤さんは俺の首筋に顔を埋めて、
「何だか、さびしくなった」
と呟いた。
「さびしい?」
大澤さんが、うん、と頷く。冷気をはらんだ柔らかい髪が頬を撫でた。
「いつも一人なのに、こっちの部屋にあなたがいると思うと、さびしくなった。変だね」
俺は彼の頭に手を置き、彼は俺の脚に自分の脚を絡めた。
「薬飲まない理由を聞かせて。病院に行かないのと同じ理由?」
静かな調子で大澤さんが言い出すので、薄暗がりを見つめて、俺はうーん、と唸った。
「特に理由はないです。親が、薬は飲んじゃだめと言ってたから、飲んだことがない」
「ほう」
「熱出ると怖い夢みてうなされて、うちの親、怒るんすよ」
大澤さんは体勢を変え、俺をうまく腕の中に抱き込んだ。
「理由はないというけど、ご両親の言いつけでは」
「母親です。でも言いつけとかじゃなくて」
「わかりますよ。何となく抵抗がある」
寝室のベッドに比べればソファーベッドは小さくて、さっきから密着しているのはそのせいなのだが、大澤さんが抱えてくれると安心感があった。
「大澤さんが」
と俺が言うのと、
「川西さんは」
と彼が話し出すのが重なった。
「先に、どうぞ」
「大澤さんが、これまでここに連れてきた人、何人くらいいます?」
彼は笑ったようで、体が揺れた。
「三年前に買ったけど、誰も来てないと思うな。うん、確か来てない。だからゼロ人」
「じゃ前の家の時は?」
「その時は、長く付き合ってた人がいたんでね」
「そうなんだ。そっか。別れた?」
「別れた。引っ越したくなって、ここを見つけた」
大澤さんは俺を抱えたまま、頭をぽんぽんと叩いた。
「私は、川西さんは人生に何を求めますか、と聞こうとしてた」
「人生に」
「何が欲しい?」
俺はしばらく考え、困って大澤さんを見上げた。
「また、そんな顔をする」
大澤さんはそう言ったが、まだ待つつもりらしかった。
わからない、と言いそうになりながら、答えになっていない、と俺は目を閉じてもう一度考えた。
「幸せになりたいかな」
大澤さんの腕に力がこもり、頭を撫でられた。
「ちゃんと考えて、いい子だねえ」
でも、何が幸せかわからないのだ、と気づいて、俺は少し驚く。幸せとは何かなんて考えたことがなかった。そして、自分が幸せになりたいと思っていることも知らなかった。
「どうしたら幸せになれるかわからない、と思ってる?」
「げ、なんでバレてんの」
大澤さんは笑ってまた俺を抱きしめ、俺はぼんやりと彼の体を抱いて、そのまま少し時間が過ぎた。
「大澤さんは、人生に何を求めるんですか」
「私ですか?今は、川西さんがそばにいてくれたらいいなと思ってる」
くすぶっていたものが急に迫り上がって腰の奥が熱くなり、彼の着ている肌触りの良いジャージに頬を押しつけた。
「それは、嬉しいけど」
「嬉しいですか?」
「うん」
大澤さんの大きな手が俺を仰向かせた。暗い中でも、彼の目が輝くのが見えた。
「私が好きですか」
頷こうとすると、彼はそれを止めて、
「だめ」
と笑った。
「口で言いなさい。簡単でしょ」
「好き」
大澤さんは、軽く唇を合わせて、
「私も好きです。もう一回言ってみて」
と言う。
「……好き」
「本当に?」
「本当に」
「本当に、何?」
「ほんとに好き」
何度も「好き」と言いながら、長いキスをした。
自分の部屋に戻って、すぐケンタに電話をかけた。留守番電話に伝言を残したが、連絡はこなかった。送ったメッセージは既読になり、返信はなかった。
次の水曜にまた電話をかけてメッセージを送った。
彼が電話してきたのは、結局ずいぶん日にちが経ってからだった。
----悪い、仕事でいろいろあって忙しかった。
よくある言い訳だとこの時はスルーしたが、後から思い出すと、忙しかったのは事実かもしれない、と思えた。ケンタの声はこれまでと変わらなくて、ああ、キヨ、と最初に名前を呼んでくれて、俺は嬉しかったのだ。
「うん、いいんだけど。こないだ、本当にありがとう」
----もう良くなった?
「大丈夫。薬とか、あの時ほんとにごめん」
----それは気にすんな。
ケンタは外にいるようで、バックします、という機械的な声と警告音が大きく響いた。
「轢かれるなよ」
----おう。駐車場だから。
風が強い夜だったので、寒いだろと言いたいのを我慢して、まず用件を口にした。
「ねえ、金返す。いつか会える?」
----俺、休みが水曜じゃなくなったんだよ。不定休っていうか、いつ時間取れるかしばらくわかんねえんだ。
それなら振り込む、と俺が言うと、次会った時でいいよ、忘れても全然いいからさ、とケンタは明るい声で言った。
----時間取れたら、こっちから連絡する。それでいい?
「俺はいいけど」
----じゃあそういうことで。また風邪ひかないように。あったかくしてろよ。
ケンタこそ早くどっか入れ、と言わないうちに電話が切れた。
今になって、ケンタから貰ったものが多すぎることに気づいても、何もできることがない。
会えたら、最後に優しくしてあげられるのに。ありがとうと言ってもごめんと言っても足りないけど、せめて二人きりになれたら。
そんなことを思う俺は、一体どういう類の人間なんだろう。冷えきった狭い部屋を見回して、俺はスマホを握りしめた。胸の痛みが治まるまで動けなかった。
それから、ケンタは連絡してこなかった。そうなるだろうと思っていた通り。
俺は大澤さんと頻繁に会うようになり、自分の部屋にいることがだんだん少なくなった。
時々、メッセージを送ってみようとケンタの連絡先を開いた。今、付き合っている人がいて、と書きかけることもあった。でも、結局送ることはなかった。
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