10. 願い

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転職したんだ。水曜定休じゃなくなったのは本当のことだったんだ。頭はその程度しか働かず、俺は呆然として彼の顔を見上げた。 「元気そう。お参りに来たの?」 ケンタは穏やかに言って、ペットボトルにセンサーを当てた。ピッと音がした。 「そう、お参り。あの、転職したんだ」 ガラスのカウンターに両手を置いて、彼は首を傾げた。 「転職はしてない。ここ、うちの店よ。最近改装して大きくしたけど」 白衣の胸の名札には、「店長 薬剤師 武藤」と書いてあり、俺は自分の勘違いに初めて気づいた。 「そうか。なんか、君は不動産屋さんだと思い込んでた」 「ああ。言ってなかったもんなあ」 彼は俺の目を覗き込み、ゆっくりほほえんだ。 「キヨが熱出した時、ね」 「うん」 「あれ、ここの改装オープンの日だったんだよ。だから帰らないとまずかった」 ケンタは自分の名札をちょっと指で触った。 「俺から連絡するって言って、結局しなくて、ごめんな」 「いや……」 「あ、お支払い方法は?」 俺はポケットに手を入れて、財布を掴んだ。 「あの、俺、あの時のお金払ってなくて」 ケンタが何か言いかけたと同時に、入店のチャイムが鳴り、彼は目を上げて、「いらっしゃいませ」と俺の背後に声をかけた。 次の瞬間、「叶」と呼ばれ、コートの背中を指で突かれた。大澤さんだった。 「お待たせ。水買うの?」 俺が頷くと、大澤さんはカードケースを取り出して、レジに手を伸ばした。 「ポイントカードはお持ちですか」 ケンタが聞き、大澤さんがないですと答える。 「ボタンで選んでいただいて、音が鳴るまでタッチしてください」 小さなボタンを押して、大澤さんはカードリーダーに薄い革のケースを押し当てた。 ケンタを見ると、目が合った。彼はわずかに口角を上げて、 「ありがとうございました」 と言った。 「レシートは、結構です。行こう」 大澤さんに促されて俺は水のボトルを掴み、大澤さんが自動ドアに向けて歩き出したのを見て、ケンタを振り返った。 ケンタは、「元気で」と口の形だけで言い、カウンターの上で、ピアノを弾くように両手の指を動かした。 俺がついてこないことに気づいた大澤さんが振り向き、俺はもう一度ケンタを見た。 「ごめんね」 小声で言うと、聞こえたのか聞こえなかったのか、ケンタは、 「ありがとうございました」 と俺ではなく、大澤さんに向けて言った。 「待たせたね」 駐車場に戻る道を足早に歩きながら、大澤さんが言う。 「待ってない。大澤さん、買い物早くなかった?」 「買わなかった」 「どうして」 俺を見返って、追いつくのを待ってから、 「嫌な予感がして、かな」 と彼は言った。 「今の店員さん、知り合い?」 違うと言ってもごまかせないのはわかっていたが、言葉が出てこない。大澤さんは黙って歩き、俺はケンタのことを考えた。 大澤さんはエンジンをかけたが、シートベルトをする様子はない。俺はペットボトルを助手席のドリンクホルダーに入れた。ナビが起動してヒーターがつき、低い音でラジオが流れ始める。 ケンタは、髪の色が暗めになったほかは、何も変わっていなかった。不思議と白衣に違和感はなかった。 待ち合わせの時、俺を見つけるといつも嬉しそうな顔をした。元気で、と声を出さずに言ったさっきの笑顔と重なった。 大澤さんが、叶、と呼びながら俺の右手を取って温かい指を絡めた。 「叶」 「うん」 「アパートに看病に来てくれたのは、さっきの彼なのか」 最初から説明しなくちゃいけない。言葉を探して、大澤さんを見る。 「あの店にいることは、知ってた?」 「知らなかった」 「そうか」 彼は突然、力を込めて手を引き、俺の肩を抱いた。 「どこにも行かせる気はない」 顔を上げると、怖いほど真剣に俺を見ていた。 「誰とでも好きに会っていい、とは言ってあげられない」 「そんなの、わかってる」 俺は震える声で囁いた。 「わかってる、わかってるけど」 「けど、何? あいつがかわいそうか」 大澤さんは俺のうなじを掴んだ。 「俺は、叶がかわいそうだよ」 唇を塞がれ、しばらく離してもらえなかった。逃げようとすると、ますます激しく貪られた。 俺を解放した後、シートベルトを締めてから、 「連絡先は、消しなさい。あなたは何をするかわからない」 と大澤さんは静かに言った。 「何もしないよ」 「じゃあ、なんで泣く。悲しいんでしょう」 顔を触ると、濡れていた。俺は首を振った。 「悲しいんじゃない」 車が走り出して、すぐにケンタの店の前を一瞬で通り過ぎた。 唇を噛んで堪えたが、涙が溢れて、止めることができなかった。子供の頃のように手の甲を歯に押し当て、俯いて声が出るのを抑えた。 「叶」 信号で車を停めた時に、大澤さんが呼んだ。 「無理に忘れなくてもいい。いつかは忘れる。俺が忘れさせる。俺といてくれるなら。ティッシュかハンカチ持ってないのか」 どこかから出したブルーグレイのハンカチを、彼はそっと俺の膝に置いた。 そのうち涙は止まり、大澤さんは、泣き止んだ俺をまた美味しい店に連れて行ってくれた。そして、その後に続く何年かの間、二人でたくさんの楽しい時間を過ごした。 もう一度叶うとしたら、何を願うだろう。 若い頃にやり損なって、日曜日と水曜日の恋人を持った話。傷つけたこと。水曜日の恋人がピアノを弾く手つきで寄越したさよならの合図。日曜日の恋人の甘くて激しいくちづけ。俺を縛ったあのかっこいい素敵な腕時計。 全部が遠くに過ぎ去った後で、小さな抽斗の奥に、ブルーグレイのハンカチだけが残った。 それを見て、胸の奥がかすかに揺れ動くなら、やり直したいことはたくさんあるけれど、日曜と水曜の出来事はそのままとっておきたいと俺は願うだろう。
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