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転職したんだ。水曜定休じゃなくなったのは本当のことだったんだ。頭はその程度しか働かず、俺は呆然として彼の顔を見上げた。
「元気そう。お参りに来たの?」
ケンタは穏やかに言って、ペットボトルにセンサーを当てた。ピッと音がした。
「そう、お参り。あの、転職したんだ」
ガラスのカウンターに両手を置いて、彼は首を傾げた。
「転職はしてない。ここ、うちの店よ。最近改装して大きくしたけど」
白衣の胸の名札には、「店長 薬剤師 武藤」と書いてあり、俺は自分の勘違いに初めて気づいた。
「そうか。なんか、君は不動産屋さんだと思い込んでた」
「ああ。言ってなかったもんなあ」
彼は俺の目を覗き込み、ゆっくりほほえんだ。
「キヨが熱出した時、ね」
「うん」
「あれ、ここの改装オープンの日だったんだよ。だから帰らないとまずかった」
ケンタは自分の名札をちょっと指で触った。
「俺から連絡するって言って、結局しなくて、ごめんな」
「いや……」
「あ、お支払い方法は?」
俺はポケットに手を入れて、財布を掴んだ。
「あの、俺、あの時のお金払ってなくて」
ケンタが何か言いかけたと同時に、入店のチャイムが鳴り、彼は目を上げて、「いらっしゃいませ」と俺の背後に声をかけた。
次の瞬間、「叶」と呼ばれ、コートの背中を指で突かれた。大澤さんだった。
「お待たせ。水買うの?」
俺が頷くと、大澤さんはカードケースを取り出して、レジに手を伸ばした。
「ポイントカードはお持ちですか」
ケンタが聞き、大澤さんがないですと答える。
「ボタンで選んでいただいて、音が鳴るまでタッチしてください」
小さなボタンを押して、大澤さんはカードリーダーに薄い革のケースを押し当てた。
ケンタを見ると、目が合った。彼はわずかに口角を上げて、
「ありがとうございました」
と言った。
「レシートは、結構です。行こう」
大澤さんに促されて俺は水のボトルを掴み、大澤さんが自動ドアに向けて歩き出したのを見て、ケンタを振り返った。
ケンタは、「元気で」と口の形だけで言い、カウンターの上で、ピアノを弾くように両手の指を動かした。
俺がついてこないことに気づいた大澤さんが振り向き、俺はもう一度ケンタを見た。
「ごめんね」
小声で言うと、聞こえたのか聞こえなかったのか、ケンタは、
「ありがとうございました」
と俺ではなく、大澤さんに向けて言った。
「待たせたね」
駐車場に戻る道を足早に歩きながら、大澤さんが言う。
「待ってない。大澤さん、買い物早くなかった?」
「買わなかった」
「どうして」
俺を見返って、追いつくのを待ってから、
「嫌な予感がして、かな」
と彼は言った。
「今の店員さん、知り合い?」
違うと言ってもごまかせないのはわかっていたが、言葉が出てこない。大澤さんは黙って歩き、俺はケンタのことを考えた。
大澤さんはエンジンをかけたが、シートベルトをする様子はない。俺はペットボトルを助手席のドリンクホルダーに入れた。ナビが起動してヒーターがつき、低い音でラジオが流れ始める。
ケンタは、髪の色が暗めになったほかは、何も変わっていなかった。不思議と白衣に違和感はなかった。
待ち合わせの時、俺を見つけるといつも嬉しそうな顔をした。元気で、と声を出さずに言ったさっきの笑顔と重なった。
大澤さんが、叶、と呼びながら俺の右手を取って温かい指を絡めた。
「叶」
「うん」
「アパートに看病に来てくれたのは、さっきの彼なのか」
最初から説明しなくちゃいけない。言葉を探して、大澤さんを見る。
「あの店にいることは、知ってた?」
「知らなかった」
「そうか」
彼は突然、力を込めて手を引き、俺の肩を抱いた。
「どこにも行かせる気はない」
顔を上げると、怖いほど真剣に俺を見ていた。
「誰とでも好きに会っていい、とは言ってあげられない」
「そんなの、わかってる」
俺は震える声で囁いた。
「わかってる、わかってるけど」
「けど、何? あいつがかわいそうか」
大澤さんは俺のうなじを掴んだ。
「俺は、叶がかわいそうだよ」
唇を塞がれ、しばらく離してもらえなかった。逃げようとすると、ますます激しく貪られた。
俺を解放した後、シートベルトを締めてから、
「連絡先は、消しなさい。あなたは何をするかわからない」
と大澤さんは静かに言った。
「何もしないよ」
「じゃあ、なんで泣く。悲しいんでしょう」
顔を触ると、濡れていた。俺は首を振った。
「悲しいんじゃない」
車が走り出して、すぐにケンタの店の前を一瞬で通り過ぎた。
唇を噛んで堪えたが、涙が溢れて、止めることができなかった。子供の頃のように手の甲を歯に押し当て、俯いて声が出るのを抑えた。
「叶」
信号で車を停めた時に、大澤さんが呼んだ。
「無理に忘れなくてもいい。いつかは忘れる。俺が忘れさせる。俺といてくれるなら。ティッシュかハンカチ持ってないのか」
どこかから出したブルーグレイのハンカチを、彼はそっと俺の膝に置いた。
そのうち涙は止まり、大澤さんは、泣き止んだ俺をまた美味しい店に連れて行ってくれた。そして、その後に続く何年かの間、二人でたくさんの楽しい時間を過ごした。
もう一度叶うとしたら、何を願うだろう。
若い頃にやり損なって、日曜日と水曜日の恋人を持った話。傷つけたこと。水曜日の恋人がピアノを弾く手つきで寄越したさよならの合図。日曜日の恋人の甘くて激しいくちづけ。俺を縛ったあのかっこいい素敵な腕時計。
全部が遠くに過ぎ去った後で、小さな抽斗の奥に、ブルーグレイのハンカチだけが残った。
それを見て、胸の奥がかすかに揺れ動くなら、やり直したいことはたくさんあるけれど、日曜と水曜の出来事はそのままとっておきたいと俺は願うだろう。
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