8. 独占

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8. 独占

部屋に入ってきた大澤さんは俺の顔を見るなり、 「病院は行った?」 と聞いた。 どいつもこいつも病院病院うるせえな。 最寄駅から電話をかけてきて、北口ですよね、と畳みかけられ、ボロいから驚かないで、と住所を言ってしまった。 ケンタを部屋に入れておいて、大澤さんは断るのか、と一瞬考えた結果なのだが、そんなことに公平を期してどうしようってんだ。頭がまともに働いていない。 俺が咳き込むと、大澤さんは、ああ、と声を上げた。 「横になって。この部屋、寒くないですか」 「エアコン壊れてます」 ベッドに座ったが、だるくてすぐ布団にもぐりこんだ。 「熱、下がったと言ってた割に、辛そうだ」 台所でコートを脱ぎかけた大澤さんは、寒かったらしくもう一度羽織る。こうして見るとケンタと背の高さが同じだった。ケンタの方が高いと思っていたが、彼は体が大きい。大澤さんはスーツだと細く見える。 彼は部屋に入ってきて、今朝ケンタが座ったのと同じ場所に膝をついた。 「川西さん、私の部屋に来ませんか」 そして手のひらを返して軽く俺の額に触れた。固い指の骨が当たり、生温かい指が何本か滑らかに押し付けられる。 「熱、まだあるじゃない」 「もう平気です」 目を閉じると、しばらくして手が離れた。 「お見舞いに来た人は、また来る?」 はっとして目を開けた。大澤さんは、俺をじっと見ていた。 「いろいろ持ってきてくれた人」 訳がわからず少し考えたが、台所にケンタがリュックから出した小さな袋が置いてあった。大澤さんは、ベッドの傍のビニール袋に視線を落とす。 「これもそうだ。看病してくれたんですね」 「友達が」 俺はそう言って、言ってから胸のあたりが重く沈み込む感覚に唇を噛みそうになる。大澤さんにはケンタのことを知られたくない。今朝、ケンタには大澤さんのことを打ち明けそうになったのに。しかし、もう知られたようなものだ。 友達が、と俺は小声で繰り返し、大澤さんは少し笑った。 「そんなに不安そうな顔しないで」 腕時計と結局今朝のまなかった薬の箱が目に入り、俺は咳き込んだ。 大澤さんは俺の肩を撫でて、枕元のティッシュを取ってくれる。咳がおさまると、布団ごと抱き寄せられた。 「かわいそうに」 冷えたコートの生地が頬に当たったが、彼の胸は温かく、いい匂いがした。 「とりあえず、私の家に来てください」 「それは、ちょっと」 「じゃあ病院行く?」 「いや」 「どうして」 彼が体を離すのと同時に、俺は彼の胸を押し返した。 「どうしてって、これまで一人でやってきたんで」 自分の言葉に驚き、同時に涙がこみ上げたが、もちろん泣きはしない。 布団の上から掴んだ俺の腕を離さないまま、大澤さんは深いため息をつき、しばらくしてから口を開いた。 「川西さん、あのね。私の母親は、風邪をひいて一人で寝ている時に突然亡くなったんですよ。そういうことはある」 俺が黙っていると、彼はもう一度息を吐き、立ち上がった。 「心配だから無理やり押しかけた。ここに一人で置いて帰る気はないので」 コートのポケットからスマホを取り出した彼を見て、俺は慌てて起き上がる。 「大澤さん」 「なに」 「俺に、そんなにしてもらう価値はないです」 彼は眉根を寄せて俺を見下ろした。 「意味不明だよ」 うっすらと苛立ちが滲む声だ。 「あなたに何かしてもらおうとは思ってない」 彼が目を伏せる様子はまるで悲しんでいるように見えて、俺は混乱する。大澤さんはやがて顔を上げた。 「ああでも、独占したいですよ、もちろんね」 「あの」 「今は、話さないでおこう。電話させて」 「価値という言葉の使い方は気になるな」 とタクシーの中で大澤さんはつぶやいたが、それ以上何も言わなかった。 窓の外の夜に浮かぶ灯りが、後ろへ後ろへ流れて消える。 家を出る前に「必要なら友達に連絡して」と言われて、俺は首を振った。ケンタはもう部屋には来ないだろう。次に会う時、と帰り際に話したが、もしかしたら連絡が取れなくなるかもしれないという予感がした。 それでも、どうしてももう一度会いたい。会って金返してお礼を言って謝りたい。 そう、風邪が治ったら、俺から連絡を取ろう。座席に沈み込んで目を閉じると、大澤さんがそっと手を握ってくれた。
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