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 土曜日の午後、学校が午前中だけで終わったので、私は家に帰って急いで着替え、ご飯を食べると、唯ちゃんの住むマンションへ向かった。電車の駅からは遠く、自転車で行ける距離でもなかったので、バスに十五分ほど乗り、そこからさらに十分ほど歩かなければならなかった。途中で唯ちゃんの大好きなケーキ屋さんのシュークリームを買った。手のひらほどの大きさがあって、真っ白な粉砂糖のまぶしてあるやつだ。いつも唯ちゃんは口の周りを真っ白にして食べる。  まだ三月だと言うのに、比較的日差しが温かかったのと、急いで歩いたせいで、マンションに着くころには私は少し汗ばんでいた。階段をわざとゆっくり上り、呼吸を整え、汗を抑える。  唯ちゃんの住む部屋の前で深呼吸をし、チャイムを押した。  すぐに智子おばさんの声で「はーい」と返事が聞こえた。 「あの、美咲です」と一言告げる。  ドアが開いて、智子おばさんが顔を出した。 「あら、美咲ちゃん、いらっしゃい」と智子おばさんはいつもの元気な声で出迎えてくれたが、その表情にはどことなく疲れが見えている。家にいるせいかも知れないが、髪の毛も少し乱れていた。 「あの、唯ちゃん最近こないから、ちょっと心配になって……。お母さんに聞いたら、熱を出してるって聞いたもので」 「あら、お見舞いに来てくれたのね……」そう言って智子おばさんは、いつもならすぐに中に入れてくれるのに、気のせいか今日は少し躊躇(ためら)ったように見えた。それにいつもなら唯ちゃんが、話し声につられて顔を出してくる。けれど今日はそれがない。まあ、体調が悪いのならそれが普通なのだろうけれど。 「まあ、中に入って」そう言われて私は買ってきたシュークリームを渡しながら中に入り、玄関の扉を閉めた。 「唯ちゃーん、きたよー? 調子はどーう?」と扉の閉まった寝室に向かって呼び掛けた。  返事はなかった。  私が扉を開けようと手を伸ばした時、ふと智子おばさんが私の肩に触れてそれを止めた。 「美咲ちゃん……、唯ね……、ちょっと様子が変なの……」 「様子?」 「ええ……、そうなのよ。熱って言ったけど、ちょっと違うのよ」  私は智子おばさんのその言葉に、嫌な予感が当たってしまったのだと確信した。 「どんな……、ふうにですか?」  智子おばさんは、何も言わず私の肩から手を離した。私は沈み込んだような智子おばさんの目をよそに、寝室の扉を開けた。 「唯ちゃん、入るよ?」  寝室はカーテンが閉じられて薄暗かった。そして唯ちゃんは、敷かれた布団の中ではなく、扉のすぐ横の一番暗い部屋の隅に三角座りをして、まるで何かに怯えるように震えていた。 「唯ちゃん!? どうしたの!?」私はそう言って唯ちゃんのそばに駆け寄った。 「ねえ、唯ちゃん?」そう呼んでも、唯ちゃんは部屋の床を見つめたまま反応しない。まるで何かから身をまもるように背中を丸め、いつもより小さく見える。よく見ると、指をしゃぶっているようだった。 「ねえ、唯ちゃん?」私は何度もそう呼び掛け、髪を撫で、柔らかい頬に触れ、冷え切ったように白くなっているつま先を握った。 「ねえおばさん、唯ちゃん、どうしたんですか?」私は扉の所で立ち尽くすように見守る智子おばさんに問いかけた。 「わからないのよ……」智子おばさんは、口元を手で押さえ、今にも泣きそうな顔をしている。  唯ちゃん……、唯ちゃん……。  これは、これは病気なんかじゃない。  これは唯ちゃんの力のせいだ。  どうしよう……。  智子おばさんは、唯ちゃんの力のこと、どこまで知っているのだろう。  私の力を使って唯ちゃんの心に触れてみたい。  そうすれば何かわかるかもしれない。  けれど智子おばさんの前でそれをやりたくない。  余計に不安にさせるだろう。  それに……、それに、それがきっかけで唯ちゃんがもっと悪くなるかもしれない。  どうしよう……、どうしよう……。  私は唯ちゃんを抱きしめ、頭を撫でた。  唯ちゃんを、こんなに小さく、こんなに頼りなく感じたのは初めてだった。 「智子おばさん、唯ちゃんを……、少し連れ出してもいいですか?」  それは何の確信もない、ほんの微かな希望でしかなかった。けれど、ここまでのことを予想していたわけではないけれど、こんな唯ちゃんの姿を全く想像していなかったわけでもなかった。あの日病院で、浅野春香と言う女の人を見た時から、唯ちゃんの力に対する嫌な予感は手も付けられないほどに膨れ上がっていた。 「連れ出すって、どこへ?」智子おばさんは不安を隠しきれない様子でそう言った。 「ちょっと……、どことは言えないんだけど、見てもらいたい人がいるんです」 「そんな……、言えないような人のところへ……」 「わかってます。けれど……、けれど……」私は智子おばさんを納得させる言葉を見つけられなかった。それに、そもそも私自身、微かな望みでしかないのだ。 「智子おばさん、唯ちゃんの力のこと、気づいてますよね?」一か八かのストレート勝負だった。  智子おばさんは私のその言葉に息を吸ったまま呼吸を止めた。そしてあえぐようにそれを吐き出すと、キッチンまで行ってへなへなと座り込んでしまった。 「唯ちゃん、聞こえる? 今から少しお出かけするよ?」  唯ちゃんは生気を失った目で、唇を微かに震わせながら、何かを言おうとした。けれどそれは言葉にならず、またふやけた指をしゃぶり出した。 「唯ちゃん、立てる?」そう言って私は、唯ちゃんを抱き上げて立たせ、「いい子だね、唯ちゃん。そのままね」と言って寝間着の上から服を着せ、靴下を履かせ、抱き上げた。 「智子おばさん、唯ちゃんのこと、少し借りますね」そう言って私は、力なく座り込む智子おばさんの横を抜け、玄関で唯ちゃんに靴を履かせ、また抱きかかえて外に出た。  このまま歩いたりバスに乗るわけにもいかなかった。私はタクシーを呼び、それに飛び乗ると、自分の家の方向にタクシーを走らせた。けれど、私が行きたかったのは、私の家ではなかった。私の通う高校を通り過ぎ、家に着く途中の道で、私はタクシーを降りた。唯ちゃんは怯えるように私にしがみつき、何も話そうとしない。 「いいよ、目を閉じてて。怖いんだね……」私はそう言って唯ちゃんを抱きあげると、いったいどんな人たちが使っているのかわからないような薄暗い怪しげなビルの隙間を通り、その奥にある占いの店へと向かった。  入り口にかかる看板は、「open」となっている。  私は唯ちゃんを抱いたまま、その扉を押した。 「いらっしゃい」と聞いたことのある声がした。 「あの……」私は店を入ったところで立ち止まった。これで正解なのだろうか。ここに唯ちゃんを連れてきてよかったのだろうか。私はぎゅっと唯ちゃんを抱きしめ、今さら迷う気持ちに身動きが取れなくなった。けれど、その答えはすぐに出た。 「待ってたよ。やっときたね」店の奥から女の人の声がした。とてつもなく懐かしい声のような気がした。 「何してんだい。早くこっちにおいで」  私はその声に、やっと我を取り戻すように歩くことができた。  店の中は相変わらず薄暗く、並べられたタロットカードから様々な絵が私を好奇の目で見つめていた。 「おやおや、よく来たねー。さあ、おいで?」その声が聞こえるやいなや、唯ちゃんが私の抱きしめた腕から飛び降り、まるでご主人様を見つけた子犬のようにバランスを崩しながら女の人の方へ一目散に走り出した。 「ちょ、ちょっと唯ちゃん!?」私はわけがわからず、その後を追った。 「よしよし、いい子だよ」私が追いつくと、唯ちゃんはすでに女の人の元へ駆け寄り、飛びつくようにその膝の上に乗り、抱きついていた。 「え、どうしたの? 唯ちゃん?」私がそう問いかける間もなく、唯ちゃんは爆発するように泣き出していた。 「いいんだよ。好きにさしておやり。あんた、そうだね、こないだの子だね。来るのはわかってたよ。この子を連れてね」 「唯ちゃん? どうしたの?」  唯ちゃんは女の人にしがみついたまま大声で泣きはらし、その声はとどまることを知らぬようにどんどん大きくなっていった。 「そうだね、苦しかったね。怖かっただろ。いいんだよ、もう安心して。全部吐き出してしまうんだよ……」女の人はそう言って唯ちゃんを抱きしめ、頭を優しく何度も撫でおろした。  私は状況が呑み込めず、唖然と二人の様子を見守った。 「ああ、いっぱい連れて来たね……」女の人はしばらく唯ちゃんの頭を撫で、顔を上げると私の周りに視線を走らせ、そう言った。 「え?」 「あんたにも見えるだろ、そいつらが」  そう言われて私は店の中を見回した。 「えっ!? い、いやあああああああああああ!!!」私はそう言って悲鳴を上げ、思わず腰を抜かしてその場に崩れ落ちた。 「いや、いや、いや、いや……」私は這いずるように女の人のひざ元に逃げ込んだ。  そこには、いたるところに靄のような人影が、こちらを睨みつけるように立ち尽くしていた。五人、十人、いや、見えないところにもその存在を感じる。恐らく店の外にもいるのだろう。見えるだけではない。その存在を体中の毛穴を通して吸い込むように感じるのだ。  あまりに禍々しいその気配に、吐き気さえする。私たちに触れようと手を伸ばしてくる。頭を前後に振って、喉に詰まった何かを吐き出そうとしているように見える。そこに顔なんかないのに、視線も呼吸も感じる。まるで喉から手を突っ込まれて腹の中をまさぐられているような気さえする。背中に悪寒が走る。吐き気がする。口の中に冷たい唾液が湧いてくる。 「いや、いや、いや、いや……」言葉が出てこない。 「ほら、あんたもこっちに来な。私がいれば大丈夫だから」  私はその言葉にすがるように女の人の脚にしがみついた。 「こ、こ、この人たち……」 「ああ。みんなこの子が引き連れて来たのさ」 「この子って、唯ちゃんが?」 「唯ちゃんって言うのかい。ああ、そうさ。いまあんたが見ているこの光景。この子はずっとこれに耐えてきたんだ」 「ま、まさか……」 「まさかじゃないよ。今この子が感情を爆発させたせいで、一時的にあんたにもこの子の力が宿っているんだ」 「これが、唯ちゃんの? 唯ちゃんには、これがいつも見えるの?」 「ああ。見えているよ。だからこいつらは付いてきたんだ。こんなやつらに囲まれちゃ、この子も正気じゃいられなかったろ」 「え、ええ……」女の人に触れていると、なんとか私も気持ちが落ち着いてきた。 「唯ちゃんが、ずっと……、ずっと様子が変で、誰に頼っていいかわからなくて……」気が付くと私まで泣いていた。唯ちゃんは、さっきよりは少し落ち着いたようだけど、まだやはり泣き声を上げている。 「ああ、ああ、大丈夫だよ。それでよかったんだよ。私のところに連れてきて、それでよかったんだよ」 「でもまさか、こんなことになっているなんて……」 「とにかくもう大丈夫だよ。ぜんぶ私に任せるんだ」女の人はそう言うと、目を閉じて、まるで眠りを誘うように唯ちゃんの頭を撫で続けた。
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