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私は放課後、みんなが教室から出て行くのを待って、こっそりと弘斗の机に触れてみた。
私は特に弘斗に興味があったわけではないのだけれど、奈央の「気になる気になる病」がうつったのか、なんだか私まで弘斗がどこで何をしているのか気になってしまった。
弘斗は二年になって一緒のクラスになった時から噂の絶えない男の子だった。背が高くていつもちょっと疲れたような顔をしていた。あまり誰かと親しげに話しているところを見たこともなく、謎めいていると言えば聞こえはいいが、悪く言うとちょっと近づき難い空気を出していた。ちゃんと学校に通っていたのは最初の一週間だけで、日を追うごとに学校をサボりがちになった。不良っぽいところはまったくないのだけれど、バイクに乗っているだのバイトをしているだの、そのせいで学校にも来ないだの、悪い噂も絶えなかった。バイクに乗っていると言うのは本当かどうかわからないけれど、バイトをしているのはほんとらしかった。
ちなみに学校では、バイトもバイクも禁止されている。
これだけ噂が広まっているのに、学校にはバレないのだろうか。
人のことだけれど、心配になった。
そう言えば、私はまだ弘斗と一度も話したことがない。そもそも私もあまり誰とでも話す方ではないし、弘斗はたとえそれがクラスメイトであろうと、うーん、なんて言うのだろう、関心を示さない、と言うか、他人にまったく興味がない風だった。だからもしかすると、弘斗は私の顔すら覚えていない可能性もある。一年近くも同じクラスにいるのだけれど……。
そんなことを考えながら、弘斗の机に触れてみた。けれどやはり、と言うべきか、何も起こらなかった。
椅子に触れてみても同じだった。
机の中に何かないかと覗いてみたけれど中は空っぽで、なんだかもう弘斗は二度とこの教室に戻ってこないのではないかと思った。
もういい。
やめよう。
私には関係のないことだ。
私は明かりの消えた教室を一瞥した。教室の反対にある窓が、今日はやけに遠く見えた。外の空は少し曇っていた。そのせいで、教室は沈み込むように薄暗い。
後ろの窓が少し開いていることに気づき、私はそれを閉めに窓辺に歩み寄った。窓の外ではサッカー部の男子たちが練習をしていた。窓越しに空を見上げると、思った以上に暗かった。今にも降り出しそうだ。そう思った瞬間、遠くで雲の合間が光り、ごろごろと獣が唸るように雷鳴がとどろいた。
ふと何かの匂いがした。
それは微かで、一瞬で、匂いがすると言うことに敏感でなければ気づきもしないような些細な匂いだった。
それは確かに前触れだった。
私が誰かの「想いの世界」に触れる時に感じる前触れだった。
けれど今はなんにも触っていない。
「想いの世界」に通じるような行為は何もしていない。
なのにどうして?
どうしていま、匂いがしたのだろう。
私は身構えた。
何かが起こるような気がした。
動きを止め、息を潜めたが、それ以上なんの気配も感じることはできなかった。
空がまた光り、雷鳴が空気を震わせた。触れていた窓ガラスに、ぽつぽつと雨が落ちだした。まずい、今日は傘を持ってきていない……。そう思いながら、私は足早に教室を後にした。
家に着くと、従妹の唯ちゃんが来ていた。唯ちゃんはお母さんの妹の智子おばさんの子供で、この春から小学生になる。智子おばさんが夜にパートに出ている間、よく家で預かっているのだ。
居間で見かけて、「唯ちゃん、いらっしゃい!」と声をかけると、顔をあげてこちらに駆け寄ってきた。首元まで伸ばした髪を、今日は右側だけ赤いヘアゴムで止めている。ヘアゴムには飴玉の飾りがついている。ヘアゴムをつける場所は、頭の右側だったり左だったりてっぺんだったりその日によって違う。ヘアゴムも、青だったりピンクだったり黄色だったり、その飾りもイチゴだったりサクランボだったり花だったりした。これは幼い彼女なりのおしゃれなのだ。きっと大きくなったら私と違ってすごくおしゃれな女の子になるんだろうなあ、と思いながら、私はいつも唯ちゃんのそんなヘアゴムを見るのを楽しみにしていた。
「ねえ、またあれやって!」私の膝に抱き着くと、唯ちゃんはそう言った。
「今日はどうしたの? また無くし物?」
「うん、そう。眼鏡無くしたの」
「唯ちゃん、眼鏡なんてしてたっけ?」
「うん」
そうだったかなあと思いつつ、私は「ちょっと着替えてくるから待っててね」と言い残して自分の部屋に入った。
雨はさほどきつくはならなかったけれど、さすがに傘無しで帰ってきたので、制服も髪の毛も濡れていた。部屋着に着替え、ドライヤーで髪を乾かし、部屋を出て濡れたシャツを洗濯カゴに放り込むと、唯ちゃんのいる居間に戻った。
「はい、いいよ、唯ちゃん。じゃあ、やろっか」
「うん!」
古い家なので、居間は畳で、真ん中に長方形のこたつ、おばあちゃんの座る座椅子、年季の入った箪笥などが置かれていた。部屋の隅に立てかけられた座布団を二枚持ってきて並べると、私はその上に正座をして「はい、じゃあ私の前に座ってね」と言って唯ちゃんをもう一枚の座布団に座らせた。
お互い向かい合って座ると、私は唯ちゃんの両手を取り、「目を閉じて、探し物を頭の中に思い浮かべてね。できるだけ強く……、できるだけ強くね」そう言って私も目を閉じた。
しばらくすると、唯ちゃんの家の匂いがして、私は唯ちゃんの「想いの世界」に入り込んだ。物に触れるよりも、直接本人の体に触れた方が「想いの世界」には入り込みやすい。唯ちゃんの家には実際にも何度か行ったことがあるので、どれも見覚えのあるものばかりだ。視界もクリアで、ふわふわと浮いているように軽く移動できる。
唯ちゃんの家はそんなに広い方ではない。お母さんと二人暮らしだからだ。寝室と、リビングと、キッチンだけのマンションだ。
唯ちゃんのお父さんは、唯ちゃんがまだ赤ん坊の頃、理由は知らないけれど二人を置いて出て行ってしまったらしい。母子家庭に育った者同士、私は唯ちゃんに親近感を抱いていた。ちなみに私のお父さんは、私が小学校の頃に亡くなった。今はお母さんとおばあちゃんの三人暮らしだ。
智子おばさんも家で暮らせばいいのにといつも思うのだけれど、「私が行くと、せまくなっちゃうでしょ?」と言って、そうしようとはしなかった。けれど本当のところは、お母さんが言うには、「智子は結婚する時、お母さんと喧嘩して家出するみたいに出て行っちゃったから、ちょっと意地を張ってるのよ」と私に説明してくれた。
おばあちゃんも智子おばさんもお母さんも、三人ともいつも仲良くやっているのに、大人はどうしてそんな面倒くさいことにこだわらなきゃいけないのだろうと不思議に思う。もっとシンプルにいけばいいのに。唯ちゃんだって、この家にいる方が寂しくないはずだ。
「ちがうの。唯が悪いの」と、不意に唯ちゃんが口を開いた。
「えっ?」と私は夢から引きずり出されるように唯ちゃんの方を見た。
「今なんて言ったの?」
「唯が悪いんだよ、お母さんがこの家に来ないの」
私はその言葉に固まった。
なに、何を言っているの、唯ちゃん……。
私は唖然として、心に思ったことを声にすることができなかった。
唯ちゃん……、唯ちゃんはいま、私が心に考えていたことに対して、返事をしている……の?
唯ちゃんは目を開け、黙って何も言えない私を不思議そうな顔で見つめた。
「ねえお姉ちゃん、眼鏡は?」
「え、うん。そうだね、眼鏡探すんだったね」
今のは、今の唯ちゃんの言葉は、何かの偶然だろう。
そう自分に言い聞かせた。
家の外では雨が強くなっていた。雷はどうやら治まったらしいけど、雨戸を打つ雨の音が激しかった。
私はもう一度唯ちゃんの「想いの世界」に入り込み、畳んだ毛布の隙間にある眼鏡を見つけた。それは子供用のおもちゃの眼鏡だった。アニメのキャラクターの一人がかけているものだ。ピンク色のフレームに、小さな花飾りがついている。
「見つけたよ! お家に帰ったら、畳んだ布団の、毛布の間を探してみて。きっと見つかるから」そう告げると、唯ちゃんは嬉しそうににっこりとほほ笑んだ。
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