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 日曜の午後、夏服の間に突っ込んでいたビーチサンダルを引っ張り出して、近所の砂浜に独りで出かけた。狭いビーチだったので、夏になっても泳ぎに来るのは地元の人だけだ。三月初旬の海風はまだ肌に冷たく、長袖のシャツにパーカーを羽織っただけで来たことに少し後悔した。  だって、家の窓から見えた空は、遠く高いところに静かに太陽が輝いていて、まるで夏のようだったのだ。  いつも季節は私の心を置き去りにして過ぎ去って行く。私はその追いつけない背中を見ているだけ。だから今日は、私が前を走ってやろうと思ってここまで来たのに、そっと素足を差し入れた海の水は、ひやりと私の心さえも冬に引き戻してしまう。  私は仕方なく海から上がり、浜辺に座って空を仰いだ。  夏はまだ遠いらしい。  寒くなんかないと強がる私に、海からの冷たい風が容赦なく吹き付ける。 足が乾くと、砂を払って私は立ち上がり、気を取り直して浜辺を歩くことにした。浜辺には、冬の間にいろんなものが打ち上げられていた。海水浴シーズンには地域の人が集まって掃除をするのだけれど、この季節にはほったらかしにされている。見知らぬ国の言葉の書かれたペットボトルやら、お菓子の包み紙、固く乾いた流木、すり減ってつるつるになった貝殻や、絡み合った海藻の塊。  なぜか敗れた男物の水着まであった……。  まさかこれは、泳いでる時にサメに襲われて……。  わけのわからない想像はやめておいた。  砂浜の長さは三百メートルほどで、東に行くと河口と岩場、西に行くとテトラポットがあってその上が駐車場になっている。さらにその向こうには、大きな河の河口と港があった。  私は西の端から東に向かって歩いた。時折、犬を連れたりして散歩する人々とすれ違う。それ以外は寂し気な光景だった。確かに晴れてはいるけれど、どうして私はこの空を見て夏のようだなどと思ったのだろう。  トンビが一羽飛んでいる。  円を描いて、食料を探して。  あんなところを飛んで、寒くないのだろうか。  私は想像しただけで身震いした。  しばらく歩くと、なにやら小さなキーホルダーが砂に埋まっているのを見つけた。赤いオートバイの形をしたキーホルダーだった。落とし物だろうか。明らかに流れ着いたものではない。錆びてもいないし、薄汚れた感じもしない。私はそれを拾い上げた。その瞬間、その持ち主の思考が流れ込んできた。 「あれっ……」と思わず私は声を出した。  これ、弘斗のだ……。  次の日の朝、学校に行くと、弘斗は教室にいた。  昨日あんなに騒いでいた奈央も、目の前に弘斗がいると何も言わなくなる。それどころか、独りで席に座り込んで、友達とすら話そうともしない。弘斗がいない時に騒ぎ立てるのは、いざ目の前にすると何も話しかけられなくなるシャイな性格の反動なのだろうと思う。  弘斗は窓辺の席に座りながら、独りで外を見ていた。  開けた窓から入り込む風が弘斗の髪を揺らす。  あ、そうだ。あれ、渡さなきゃ……。そう思いながら私はカバンの中にオートバイのキーホルダーを探した。 あった。  私はそれを握り締め、弘斗に渡そうと席を立った。  席を立った……、けれど、そこからどうしていいのかわからない。  なんて話しかけよう? 「これ、拾ったんだけど」って言えばそれでいい話なのだけど。 「なんで俺のだってわかった?」なんて変な話の流れになるのも困る。それにあの雰囲気。 「俺にかまうな、話しかけるな、近づくな」と背中が言っている。それに奈央の視線も気になる。  私はキーホルダーを手に立ち尽くしたまま困ってしまった。  どうしよう……。  結局私は、そんなもんもんとした気持ちのまま、弘斗にひと言も話しかけることができず、キーホルダーを返せないまま家に帰って来た。  電話をしようか。   けどなんて?  そもそも電話番号を知らない。  誰かに聞けば……。 「どうして弘斗の番号なんか知りたいの?」なんて聞かれたらどうしよう。  行き詰まった。  私は自分の部屋で椅子に座りながら、キーホルダーを指に引っかけ眺めた。 そもそも弘斗って、どんな人なんだろう?  このキーホルダーを拾って流れ込んできた弘斗の想いは、ただこれが弘斗の物であること、そして何か……、何か別の想いも流れ込んできたのだけれど、それをうまくキャッチすることができなかった。あと、これを落とした時、誰かがそばにいたような気がした。小さい男の子のようだった。けれどその顔まではわからない。ただ、そう言う雰囲気を感じるだけだ。  また何かわからないだろうか? 私はそう思ってキーホルダーを握り締めて目を閉じた。  意識を集中して……、集中して……、集中して……、って、そんなことしても何も見られない時は何も見られないのだ。  私は目を開けるとキーホルダーに向かってため息をついた。  もう寝よう。  そのうち返せるだろう。  次の日学校に行くと、弘斗は来ていなかった。  結局今日も渡せないな、と思いながら、私は学校の帰り、友達とモスバーガーでコーラとポテトをつまんだ後、遠回りをして砂浜に独りで寄った。 「あれ?」と思ってよく見ると、私がキーホルダーを拾ったあたりの砂浜に、弘斗の姿があった。制服を着ている弘斗のイメージは華奢で頼り無い感じだけれど、擦り切れた革のジャケットを着こんだ今の姿は、どことなく男っぽくて、大人な感じだった。そしてその傍らには、小学生くらいの男の子。  ああ、私が見ていた男の子はあの子だ……、とふと思った。  それはさておき、さあどうしよう。と私はやはり困ってしまった。プライベートな弘斗を見るのはもちろん初めてだった。学校でさえうまく話しかけられないのに、こんな外で初めて私服を着ている弘斗を見て、緊張して話しかけられるはずなどなかった。  困ったな……、と思って二人を遠めに見ていると、弘斗がどうやら私に気づいたようだった。立ち止まって私の方を眺めている。それに気づいてか、横にいた男の子も私の方を眺めている。こうなると、ここにじっとしているのも不自然で……、私は覚悟を決めて、弘斗に近づくことにした。 「あ、あの、こんにちは」砂浜に降り立つと、急に風が吹いて髪を乱した。 「よう。何してんの?」 「何ってその、散歩だよ」 「独りで?」 「うん、独りで」  何やら「変わった奴」みたいな視線を向けられながら、早くキーホルダーを返して帰りたかったのに、出てきた言葉は「私、美咲って言うの」と何とも間の抜けた台詞だった。 「知ってるよ」 「知ってる?」 「うん」 「私の名前を?」 「あたり前だろ。クラスメートなのに」 「そ、そうよね」 「なんだよお前、俺が美咲の名前、知らないと思ってたの?」 「いや、別にそう言うわけじゃ……」 「そう言うわけだろうよ。ま、いいけどさ」  なんだか私はすごく負けてしまったような気になって、またうまく話せなくなってしまった。 「あの、その子……」そう言って、なんとなく弘斗に似ているような気のする小学生の男の子に視線を移した。 「ああ、俺の従兄の子供だ。俺の子だとでも思ったか?」 「ま、まさか!」 「冗談だよ。何だよお前、なんか話しづらいぞ?」 「話しづらいって言うか、話すの初めてだよ」 「そうだっけ?」 「だって弘斗、いつも誰とも話さないじゃん」 「まあそうだよな」  男の子は私たちの話が退屈だったのか、独りで水際に行って水の中を眺めている。魚でも探しているのだろうか。それを気にするように、弘斗は男の子を目で追った。海は静かだったので、男の子が波にさらわれるようなことはないだろう。それなのに男の子から目を離そうとしない弘斗に、男の子を思いやる繊細な一面を見たような気がした。  男の子は物静かな感じの子だった。  やはり、弘斗に似ている。  顔だけじゃなく、雰囲気もだ。 「どうしてなの?」 「なにが?」弘斗は私に振り向いて言った。 「どうしてあんまり人と話さないの?」 「そんなことに特に理由なんかないよ。ただ、他人に興味がないだけだ」  興味がないだけ、か……。  それはあまりにもストレートで、シンプルで、説得力があって、寂しい言葉だった。 「あ、それよりこれ」と、私はそう言ってカバンの中を探し、ずっと渡そうと思っていたキーホルダーを差し出した。 「あっ、それなんで持ってんの?」弘斗はそれを受け取りながらそう言った。 「いや、あの、ここで拾ったの」 「今ちょうどそれ探してたんだ」 「そうだったの? じゃあよかった」 「あいつにやるって約束してたんだよ」 「あいつって、あの男の子?」 「うん、そうだ。もともと俺がバイクの鍵につけてたやつなんだけど、あいつが欲しそうにしてたからさ、今度やるよって言ってたんだ」 「そう、よかった」私はなんとか緊張をほぐし、ほほ笑んだ。 「うん。ありがとう。けど、なんでそれが俺のだってわかったんだ?」  やっぱりそう言う流れになったか……、と思って私は必死に言い訳を考えた。 「あの、その、占いで……」 「はあ? 占い?」 「そう。た、タロットカードで……」 「そんなの本気で言ってんのか?」 「いや、その……」うつむいて、目をそらし、なんて言っていいのかほんとに私は困った。 「まあいいや。とにかくありがとな」弘斗は黙り込む私を見てため息をつき、そう言った。 「うん……」 「変わってんな、お前」 「変わってる?」 「うん。なんか俺に似てるような気がする」 「そうかな」どういう意味だろ。 「もしかして、片親だろ?」 「うん、そうだよ? どうしてわかったの?」 「俺がそうだからだよ。父親がいない」 「それだけじゃないよね」と言って、私は「しまった!」と思った。いま不意に、弘斗はたぶん、他にも身内を亡くしているような、そんな気がしたのだ。 「え?」 「いや、何でもないよ」 「どう言う意味?」 「え、ううん、気にしないで」 「言えよ。別に怒んねーから」 「なんか、他にも身内の人、亡くしてそうだなって思った……」 「何でお前、そう言うのいちいちわかっちゃうんだよ」 「いや、その、だって、弘斗だって私が片親だって言うのわかったじゃない?」 「そりゃまあそうだけどさ、俺のは勘だよ。美咲のは、いまわかってて言っただろ」 「そんなことないよ、偶然」 「まあいいけどさ」と弘斗はため息をして言った。「それより今度、礼をするよ」 「れい?」 「ああ。一応、大事なもん拾ってくれたからな」 「いいよ、別に」 「そう言うなよ。LINE教えろよ」 「そんな……」 「いいから」そう言われて半ば強引に、私は弘斗にLINEの交換をさせられた。 「今度誘うよ。今はあいつがいるから」そう言って弘斗は親指で後ろにいる男の子を指さした。  興味がないから話さない、か。  私は家に帰ってから、ずっと弘斗の言葉を思い返していた。  私は誰かに興味を持っているのだろうか。  そのことについて、少し考え込んでしまった。  私も……、誰かに興味はない。  なのに私は、なぜみんなと話をしているのだろう。  なぜだろう?  興味もないのに、私は誰かと話すんだ。  そう考えだすと、私は自分がなんだかとんでもなくつまらない人間のように思えてきた。弘斗はそんな私をどう思うのだろう。どうしてそんなことを考えるのだろう……。  それからずっと、私の頭から弘斗が離れなくなった。  キーホルダーを返したらそれで終わりのはずだったのに、なぜかその後も繋がってしまった。  なんだろう、この気分は。  なんだか手元から弘斗のキーホルダーが無くなると、ちょっと寂しい気持ちがした。それにさっきからLINEが気になる。ずっと弘斗からのメッセージがないか画面を見ている。  何を期待しているのだろう。  期待?  これは期待なの?  何に対する?  これって、私は弘斗に興味を持っているってことなのだろうか。  スマホが鳴って、画面にLINEの受信を伝える通知が表示された。  弘斗からだった。  胸が痛いほどに締め付けられるのを感じた。
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