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夜になって、私は独りベッドに横たわり、手にした赤いハートのストラップをそっと握りながら、弘斗のことを思い出していた。二人で買って、お互いにプレゼントしたものだ。弘斗の持っているのは、矢の形をしている。
「こんなの恥ずかしいよ」私はそう言ったのに。
「でもなんか見てただろ?」と弘斗は強引にそれを買った。本当は、どう見てもカップルがお互い持つものだ。だって、二つを合わせると、矢がハートを射抜く形をしている。
なんとなくいいなと思って見ていたのは確かだ。
けれどまさか弘斗と二人でそれを持つなんて。
弘斗はどんなふうに思っているのだろう。
私は手にした赤いハートに問いかけた。
これを買う時、弘斗は何を思っていたの?
弘斗は私のことをどう思ってる?
期待し過ぎかな。
何も思ってないのかな。
期待してもいいのかな。
最初に言ってたとおり、ただのお礼なのかな。
期待しちゃダメなのかな。
胸が締め付けられる。
なんだかずっと弘斗のことを考えている。
いろんなことを考えてしまう。
きっと、弘斗のことを何も知らないまま、好きになっちゃったから。
鼓動がいつもよりほんの少し早いまま、一向に収まる気配がない。
好き……、なんだ。
好きって、こんな風になるんだ。
苦しいんだ。
嬉しいのに、苦しいんだ。
私はまるで自分の心を守るように、ぎゅっとハートのストラップを握り締め、弘斗のことを思い出した。力なんかに頼らなくとも、胸の奥にしっかり弘斗の思い出が生きていた。
弘斗のバイクに乗せてもらい、三方五湖まで行った。
福井県の若狭の海沿いにある、三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖をまとめて三方五湖と言う。そしてその五つの湖と山、その向こうの海との間を走るレインボーラインと呼ばれる有料道路に行った。途中、駐車場にバイクを停め、スキー場で見るようなリフトに乗って山頂にある公園に行った。リフトは一人乗りで乗る瞬間は緊張したけど、空中へと昇って行く浮遊感と、振り向いた時に見えた弘斗の顔に心が舞い上がった。山頂公園で二人でソフトクリームを食べたり、サンドイッチを買ってテラスのソファーに座り、海を眺めながら二人で食べた。
小さな鐘があるのを見つけて私が一人で鳴らしていると、「それ、恋人同士で鳴らすもんじゃないの?」と言われ、恥ずかしくなって固まってしまった。
「気が付かなかった……」と私が言うと、「一緒に鳴らせば問題ないだろ」と言って弘斗も一緒に鳴らしてくれた。
足湯があったので、二人で裸足になって浸かった。裸になっているわけでもないのに、二人で同じお湯に足を入れていると言うだけで、私は急にたまらなく恥ずかしくなり、何も話せなくなって汗をかいた。
「そんなに熱い?」と聞かれて、私はまともに弘斗の顔を見れずに頷いた。何もかも初めての経験だった。
今までだって、友達や家族との思い出はたくさんあるのに、こんなにいつまでも胸を躍らせ、きらきらと輝き続ける記憶は他にない。
苦しい、苦しい、苦しい……。
急に胸が締め付けられた。
私はうつ伏せになって枕に顔を押し付けた。
なんだか涙が出てきた。
苦しい……。
弘斗は……、どう思っているのかな。
夕方になって「まだ少し大丈夫だろ?」と言われ、私は頷いた。
「ちょっとだけ砂浜歩こう」と言って弘斗は見知らぬ小さな海水浴場に寄り道した。普段行く砂浜とは違い、遠浅で静かな砂浜だった。先に歩く弘斗の背中を見ていると、私は何も言えなくなった。
微かに何かの匂いがして、海を見た。沈みかけの太陽を反射して、海がきらきらしていた。
太陽よりも、海が眩しいなんて変なの。そう思いながら弘斗の背中をもう一度見た。
あれ?
一瞬、その背中が別の人に見えた。
既視感だ。
今までこういうのはなかったけれど、これも力のせいだとすぐに悟った。匂いがしている。けれど私は今、何にも触れていない。
こういうこともあるのかな。
何かに触れなくても、誰かの想いや記憶を見ることがあるのかな。
そんなことをぼんやり考えながら、弘斗の背中を追った。
ほんの少し、スローモーションを観るように時間が引き延ばされているような気がした。
何にも触れていないのに。
これはいったい誰の想いなんだろう?
誰の目を通して、弘斗の背中を見ているの?
ちがう、弘斗の背中じゃない。
似ているけれど、すごくすごく似ているけれど、弘斗の背中じゃない背中を見ている。
だれ? だれ? だれなの?
私も、私じゃない。
この背中を見ている私も、私じゃない。
私じゃない誰かの目を通して、この知らない背中を見ている。
だれ? だれ? だれなの?
けれど、嫌な感じではなかった。
心地よい、安心するような、温かい気分だ。
それは、それはそう、弘斗の背中を見ている私と同じ気分だ。
風が吹いた。
海から、潮の匂いのする風が、ふっと吹いて、私の髪を顔に絡ませた。
あ、これだ。
この風なんだ。
私は何にも触れていないと思っていた。
けれど違うんだ。
私はさっきから、この風に触れていたんだ。
私はこの風に込められた想いを見ていたんだ。
ここで、この場所で、この風に触れながら、誰かの背中を見つめていた人の記憶を見ているんだ。
風がさらに吹き、私の心を乱した。
目の前が真っ白になって、私は体から力が抜けていくのを感じた。
「おい、おい、大丈夫か? 美咲?」そう言われて、倒れる寸前、弘斗に抱きかかえられたのを知った。
「え、ああ、大丈夫……。ごめんなさい」
「どうしたんだよ、急に」
「ううん、なんでもないの。ちょっと立ち眩み」そう言いながら、なかなか脚に力が入らない。
弘斗の匂いがした。
何ていい匂いなんだろう。
弘斗の匂い、ずっと嗅いでいられたらいいな……。
眠りに落ちるように、体から力が抜けていく。
「おい、美咲!?」
大丈夫……、そう言ったつもりだったけど、声にはならなかった。
気が付くと、私は座り込んで、弘斗の胸の中で眠り込んでいた。
ほんの短い時間だったけど、とてもとても深い眠りの中にいた。
ずっと弘斗の匂いがしていた。
眠りの中で、私は知らない誰かの名前を呼んだ気がした。
知らない誰かの名前で呼ばれた気がした。
目を覚ますと、辺りはもう薄暗かった。
「えっ?」私は一瞬、状況が呑み込めなかった。
「起きたか?」目の前に弘斗の顔があった。
「弘斗?」私はどうやら気を失ったまま、弘斗の膝を枕にして眠りこけていたらしい。
「よく寝たな」そう言って弘斗は笑った。
「え、あの、ごめんなさい!」慌てて体を起こすと、まだ眩暈がして私は目を閉じた。
「無理すんなよ」
「うん……、ごめん……」
「寒くないか?」
「少し……、寒いかな」私がそう言うと、弘斗はそっと私の肩を抱き寄せた。 私は恥ずかしくてはずかしくて……、けれど、何も抵抗することができなかった。心も体も、弘斗の腕の中にいたいと、そう言っていた。太陽が沈むと、空気は急激に冷え込んでいった。夜の時間だけ、まだ春に置いてけぼりを食っているんだ。
星はまだ見えない。
砂浜には誰もいない。
静かな波の音が、胸に心地いい。
冷たい空気が首元に絡みつく。
けれど、弘斗に触れられていると、とても温かかった。
弘斗がそっと顔を寄せてきた。
駄目だよ……。
ねえ弘斗?
駄目だよ……。
そう言おうとしているのに、弘斗が唇を重ねてしまったせいで、何も言うことができなかった。
体が震えた。
寒さのせいじゃない。
鼓動が一瞬、止まったせいだ。
心臓が締め付けられて、体中の血液が止まってしまったからだ。
弘斗が唇を離しても、私はしばらく動くことができなかった。
「駄目だったか?」
「いいとは言ってないよ」
「許せよ」
「また連れてきてくれたら許してあげる」
「そんなこと言ったら、連れてくるたびにキスするぞ?」
「うん……、いいよ」
力が抜けて動けない私の体を、弘斗はまた抱きしめた。
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