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「最近なんか、奈央の様子おかしいよね」最初にそう言ったのは加乃だった。  私は最初、加乃の言った意味が分からず、思わず振り向いて奈央の顔を見た。 「弘斗弘斗って、言わなくなったでしょ?」加乃は付け加えた。 「確かに……」言われて見ればその通りだ。 「振られたのかな?」 「まさか……」私は気のない返事をしながらも、内心では気が気ではなかった。 「けどなんか噂もあるよ? 弘斗が女の人乗せてバイクで走ってたって。それをたまたま見た人がいて、奈央に噂が流れたみたい」  私はその話を聞いて、慌てて奈央から目を逸らした。  その噂の中に、私の名前は出ていたのだろうか。怖い……、怖い……、もし奈央が、私と弘斗のことを知っていたら。そして間が悪いことに、今日は弘斗がちゃんと教室に来ていた。弘斗は相変わらず、なんにも関心無さげに独りで窓の外を眺めていた。  弘斗のことを見ることができない。  なんだか背中に奈央の眼差しを受けているような気がする。  私の視線すら監視されているような気がする。  私が弘斗を見つめていたら、きっとそれが奈央にバレてしまう。  どうすればいいんだろう。  そしてそれは昼休みのことだった。  弘斗はいつも、昼食は売店で買って、どこか外で独りで食べているようだった。  チャイムが鳴り、弘斗は教科書をまとめて机に入れると席を立った。教室を横切り、外へと歩き去る瞬間、ふと私の方に視線を送り、私と目が合った。  そして弘斗が見えなくなると、後ろで誰かが机を拳でたたくような音がした。  教室が一瞬、静まり返る。 「奈央、急にどうしたの?」美香の声が聞こえた。  奈央の返事はなかった。  怒りに戦慄(わなな)く奈央の顔が見えるようだった。 「え、奈央、どうしたの?」と、もう一度聞く美香の声も耳に入らないようだった。  やがて立ち上がる音がして、「奈央? ねえ奈央!?」と呼ぶ美香の声にも応じず、奈央は教室の外に出て行った。 「ね、やっぱ奈央、なんか変だよ。あれぜったい弘斗に彼女ができて、そのこと知っておかしくなってるんだよ」加乃が振り向いて奈央の出て行った扉を眺めながら言った。  そんな……。  それから奈央の、私への嫌がらせが始まった。始めは偶然、すれ違いざまにぶつかる程度の物だった。誰もわざとだと思わないほどの、肩がちょっと強くぶつかったくらいの。  けれどそれは日増しにエスカレートし、ある日の午後、私が掃除で残っていた時のことだった。  私は加乃とクラス替えの話をしながら机を後ろに引いていた。 「進路とか学力とかあるし、だいたいみんな同じ顔ぶれで三年になるんじゃない?」加乃が言った。 「それなら安心。私、友達とか作るの苦手だし……」そう言って奈央の机を引こうとした瞬間、後ろから奈央が肩にぶつかってきた。不意を突かれた私は、思わずバランスを崩して机ごと後ろにひっくり返ってしまった。 「ちょっと奈央! 何してんの!」と、それを見ていた加乃が怒りを露わに奈央に食ってかかった。 「美咲が後ろも見ずに歩いてくるからじゃない!」 「掃除してんでしょ! 奈央こそなにうろうろしてんのよ!」 「自分の机の周りにいて何が悪いの!」  そう怒鳴り合う二人を遠巻きに、その場にいたクラスメートがあっという間に私たちを取り囲んだ。 「最近の奈央、変だよ!? 弘斗と何があったのか知らないけどね、美咲に八つ当たりすることないじゃん!」  その一言が奈央の心にどう刺さったのか知らないが、奈央は拳を握り締めたまま、黙って踵を返し、教室を出て行ってしまった。 「美咲、大丈夫?」 「うん……、ちょっと腕をひねっただけ」そう言って私は右手を加乃に見せた。 「血が出てるじゃん! 酷い! もう奈央、許せない!」 「いいよ、大丈夫。気にしないで。ありがとね」 「いいから早く、保健室行くよ」そう言われて加乃に支えられて立ち上がり、私は保健室に連れて行かれた。  血が出ているのは大したことなかったけれど、バランスを崩して転んだ時に右手を打ち付けてしまったせいで、手首を軽く捻挫していた。 「加乃、ほんとにありがとね、かばってくれて」 「私はいいけど奈央、いったいどういうつもりなんだろ」 「気にしないで」そう言い残して私はそのまま病院に行くことになった。  その夜、加乃からLINEがあった。 ねえ、弘斗の彼女って、もしかして美咲なの?  私は答えに窮した。 「そうだよ」ってどれほど言いたかったか。  けれど、私はあれから弘斗と話していない。彼女と名乗っていいような約束もしていない。ただ……、抱きしめられて、キスをされて……。 よくわかんないの。 けど、奈央がそう思い込んでいるのは、確かに私だと思う。  と、そう答えた。 それじゃあ、弘斗のバイクに乗ってたって言うのも、美咲のこと? うん、そうだよ。 弘斗のこと、好きなの?  すぐにでも答えられるその質問に、私は返事をするのに十分もかかってしまった。 うん、好き。 そうなんだ。いつから? 先週の日曜日、初めて弘斗にバイクに乗せてもらった時かな。  本当はもっと前から意識はしていたものの、好きだって気持ちを自分の中に見つけたのは確かにあの日からだ。 弘斗は奈央のこと、なんて言ってるの? わからない。実はその日曜から、ぜんぜん話してないんだ。 それじゃあ弘斗、今日のことも知らないの? うん。言ってないよ。  その会話を最後に、加乃とのLINEは途絶えた。私は部屋でベッドに横になり、手首に巻いた包帯と、弘斗にもらったハートのストラップを交互に眺めていた。弘斗と写真、撮りたかったな。ほんとはあの時、何度もそう思ったのだけど、なんだか恥ずかしくて言えなかったのだ。  三十分ほどして少しうとうとしていると、スマホにLINEの着信を伝える音がした。私はてっきりまた加乃が話しかけてきたのだと思ったのだけれど、LINEを開いて体が固まった。 大丈夫なのか? 怪我したって。  胸が締め付けられた。弘斗だ。 「弘斗……」  なんだか私は、急にいろんな感情が胸の中をぐるぐる回り出し、体を丸めて泣いてしまった。 うん、大丈夫だよ。 奈央に、突き飛ばされたって。 だれに聞いたの? 加乃だよ。 そんなんじゃないから、気にしないで。 今、電話していいか?  え、今は駄目……、と返そうとした時には、もう着信音が鳴っていた。 「はい……」 「美咲か? ほんとに大丈夫なのか?」 「うん……」大丈夫。大丈夫な振りをするつもりだったけど……、私は泣いているのを隠すことができなかった。 「おい、どうしたんだよ。やっぱり怪我、酷いのか?」 「ううん、違うよ。怪我なんかどうでもいいんだよ……」 「それじゃあなんで泣くんだよ?」 「弘斗の、弘斗の声聞いたから……」声がうわずってうまく話せなかった。 「はあ?」 「だって弘斗、ずっと話したくて……、我慢してたから」思いを打ち明けると、ますます涙が溢れてきた。 「なんで我慢するんだよ。いつでも話しかけてくれていいよ」 「そんなこと言ったって、しつこくして嫌われたりしたら嫌だなって、不安で不安で……」 駄目だ、私……、赤ん坊みたいだ。涙も、泣き声も止まらない……。 「そんなんで嫌わねーよ」 「そんなこと言ったって、私……、私……、弘斗のなんなのかなって……」 「なんなのって……。わかった。じゃあ、まってろ、バカ。今から行くから」そう言って弘斗はいきなり電話を切ってしまった。  え?   弘斗は最後になんて言ったのだろう?  私は潜り込んだ布団の中で、LINEの弘斗との会話画面をじっと見つめた。  行く……、から?  なになになに!?  どういうこと?  今、何時?  慌てて布団から飛び起き、時計を見ると、夜の十一時半だった。   弘斗って、どこに住んでるの?  私の家、知ってるの?  私は今まで泣いてたことなんて吹っ飛んで、慌てふためいた。  え、嘘でしょ?  嘘だよね?  行くって、来るの? うちに?  私はとにかく寝起きの顔をどうにかしたくて慌てて洗面所に行った。  幸い、おばあちゃんもお母さんも寝ているようだった。  気づかれないように、せめてトイレに起きたとでも思われるように、私は静かに左手で顔を洗った。  寝ぐせも、えっと、えっと、どうしよう?  帰ってきてからお風呂にも入ってないし、着替えもしてないし、病院までお母さんに迎えに来てもらって、帰ってきてすぐに寝ちゃったから。  私はとにかく部屋に戻って部屋着を脱ぎ捨て、スウェットの上下を着ると、「これじゃあ部屋着と変わらない!」と思いながら他に着替えを探した。 起きてるか? 弘斗からのLINEだった。 うん。 家の前にいるから来いよ。 家の前って、私の家の前? 決まってるだろ! そうだよね。けど、いま部屋着だから。 そんなのいいから。五分で帰るよ。  でも、でも、私……。  私、弘斗に会いたい。  もういてもたってもいられなかった。私はスウェットの上にジャケットを羽織ると、そっと自分の部屋から玄関に降り、お母さんとおばあちゃんを起こさないようにそっと靴を履いて扉を開けた。外の空気は冷たかったけれど、そんなことよりなにより……。私は表に出て、辺りを見回した。  いた……。  十メートルほど離れた街灯の下に、弘斗がじっと立っていた。  顔が見れない。  けれど、私は……、また泣き出しそうな心を押さえて、私はゆっくり弘斗の元に歩いた。 「すまなかったな」弘斗はふさぎ込んだような顔をして言った。 「なにが?」 「この手、俺のせいだろ?」そう言って弘斗は、包帯を巻いた私の右手に優しく触れた。 「違うよ」  弘斗はまるで私の思っていることがわかるかのように、腕の中に包み込んでくれた。  なんて優しいんだろ。  これって、夢じゃないんだ……。  あれで終わりじゃなかったんだ……。 「加乃に怒られたよ」 「加乃に? なんて?」 「美咲が俺のせいで苦しんでるって。あいつ、あんな気の強い奴だったんだな」 「え、そんなに? ごめんなさい……」 「何で謝るんだよ。悪いの俺だよ。加乃、いい奴だな。美咲のために、あんなに怒ってさ」 「うん。私も今日、驚いた」 「ほんと悪かったよ、俺。ぜんぜん話もしないで」 「いいよ、そんなの」  弘斗は私を包むその両腕に力を込めた。 「駄目だよ、こんなとこで……」そう言いながらも、私は何も抗えなかった。心も、体も、弘斗の腕の中、弘斗の温もり、弘斗の呼吸、弘斗の匂い、そのすべてを欲していた。  二回目の、キスだった。  優しく、長い、口づけだった。  呼吸が止まって死んでしまいそうな気がした。  それでもいいと思えるほど、心が甘く溶けていった。  唇を離した後も、弘斗はじっと私を抱きしめてくれた。 「そうだよな、こないだ、言わなかったよな」 「なにを?」 「俺の、彼女になれよ」  心臓がどくんっと大きく鳴った。 「なんでそんな上からなのよ」 「それが俺だからだよ」 「独りにしない?」 「しないよ」 「嘘ばっかり。すごく不安で……、寂しかった」 「美咲ってそう言うとこあるんだな」 「自分でも驚いてる。嫌だった?」 「そんなわけあるかよ」 「じゃあお願い聞いてくれたら彼女になる」 「お願い?」 「写真ちょうだい」 「俺のか?」 「そうに決まってるじゃない! いっぱい、いっぱいちょうだい」 「わかったよ、そのうちな」 「だめ」 「だめ?」 「いま、最初の一枚をちょうだい」 「そんなこと言ったって……」 「はい、撮るよ」そう言って私はポケットからスマホを取り出し、弘斗に向けた。 「まった!」そう言って弘斗はスマホを持った私の左手を取ると、私を抱き寄せ、二人一緒に撮ろうとした。 「え、私いま……、髪ぐちゃぐちゃで!」 「自分で言い出したんだろ? 覚悟しろよ。最初の一枚だ」 「わかった……」 「これで美咲は、おれの彼女だ」そう言って弘斗は、シャッターを押した。
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