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事前にDV被害届けを出しておいて、よかった――
細く開けたドアの隙間から、警察官に連れられパトカーに乗り込む岩倉の姿が見え、ふうっとため息が出た。
ここへ来たばかりの頃、プライドの高い岩倉が自分を追って来るとは思えなかったが、マスターに強く言われて病院や警察署へ行き、届けを出した。
病院のスタッフが、あざだらけの僕の体を見て、一瞬息を飲んだのを覚えている。でも、それが普通だと思っていた自分の感覚は、すでにおかしくなっていたのだろう。
今思えば、最初の夜、そんな傷だらけの僕をマスターは抱いてくれた。
きっと、酔っぱらった僕が無理やり抱いてくれとせがんだのだろう。普通なら、傷だらけの体を見てドン引きするだろうに。
酔ってほとんど覚えていないけれど、ただただ甘い快感に揺蕩っていたようなおぼろげな記憶がある。癒すように抱いてくれた人なんて、初めてだった。
いつだって自分を助けてくれるマスターに、申し訳なさと、どんなに押さえつけようとしても募ってしまう想いに翻弄される――
「大丈夫かい、里村くん」
ぼうっと物思いにふけっていた僕は、オーナーの声に現実に引き戻された。
先ほど到着した白髪の六車オーナーは、警察官やマスターと話をした後、カウンターの中に入り、何かを作っていた。
「…ありがとうございます。大丈夫です」
ふと視界に入った自分の左手首に赤い指跡がついていた。岩倉の跡が残っているのが、とても嫌だった。シャツの袖を伸ばして、隠す。
「…すみません。ご迷惑をおかけしてしまって」
「君が謝る必要は、全くないよ。悪いのはあの男だ」
オーナーが、カウンターに座る僕の前に湯気の立つ耐熱ガラスのティーカップを置いた。
透き通ったカップの中には、はちみつ色の飲み物が入っていた。
一口飲むと、レモンとはちみつ、そして何か優しい香りがふわりと立ちのぼる。
「ホットレモネード…ですか?」
オーナーは口元に笑みを浮かべた。
「近いね。ホット・トディと言うホットカクテルだよ。バーボンとカモミールリキュールが入っている」
「なんか……落ち着きますね」
「イギリスでは、風邪の時に飲むそうだ」
「ああ。わかる気がします」
しばらく黙って、ゆっくりと味わう。
ほんのりとした香りと甘さは、昂りささくれ立った神経を、まるで柔らかな毛布のように優しくくるんでくれた。
オーナーもそれ以上話しかけず、その気遣いがありがたかった。
岩倉の姿を見た時の恐怖。
掴まれた腕の痛み。
せっかくマスターとの穏やかな日々で癒された古傷が、軋み出す。
もう二度とあんな日々には戻りたくない。
怖い……。
警官に事情を聞かれていたマスターが戻って来た。
「マスター、ありがとうございました。ごめんなさい。何か色々…」
「奏太が謝ることじゃない。謝らなくていいんだよ」
オーナーと同じことを言われた。
「…はい」
いつもなら、マスターは僕のことを『奏太くん』と呼ぶが、先ほど岩倉に対応した時からの続きで『奏太』のままだ――そんな些細な違いに気づいてしまう。
距離が少し近づいたように勝手に感じ、ほのかな喜びと切なさが同時に湧きあがり、即座に急ブレーキを踏むと胸の奥がきりりと痛んだ。
何も知らないマスターが、僕の髪をくしゃりと撫でる。
「君は、何でも自分のせいだと抱え込みすぎる」
温かな大きな手は、それだけで僕の皮膚温を上げる。
僕はうつむいて、ティカップの底に残る甘いはちみつを、じっと眺めるしかなかった。
「数真も飲むか? ホット・トディ」
「いえ。バーボンをストレートで飲みたい気分ですね」
「まあ、いいんじゃないか。お前なら2,3杯飲んだところで変わらんだろう」
「さすがに酔いますよ」
マスターとオーナーが笑う。
血のつながりはないと言うけれど、この二人は、すごく雰囲気が似ていた。
笑った時の目元の感じとか。すっと伸びた背筋と、穏やかそうな紳士に見えて、隙がないところとか。
元警察官だったというオーナーは、膝を怪我してリタイアしたと聞いたが、きっと現役時代は格闘技をやっていたはずだ。
そういえば。
「あの…、マスターは、柔道とかボクシングとか、してたんですか?」
「え…?」
「全部は見えなかったけど、岩倉のこと、すごく上手にかわして、倒してたから」
「ああ…。昔、ちょっと護身術をかじったことがあってね」
「すごい!それで、あんなことできるんですか? 僕も…習おうかな」
ずっと、マスターに守ってもらえるわけじゃない。
誰かに守られてばかりも、格好悪い。
自分にできることを、ちょっとずつ増やしていきたい。
「確かにそれはいいかもしれない。またあの男が来るかもしれんしな。ちょっと知り合いに聞いてみようか」
オーナーが胸元のポケットから手帳を取り出す。
「ありがとうございます」
早速オーナーは電話をかけはじめた。
「マスターって、何でもできるんですね」
見上げて言うと、マスターは複雑そうな、少し困ったような表情を浮かべた。
「…そんなことないよ」
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