3週目~波立つ

4/5
前へ
/37ページ
次へ
事前にDV被害届けを出しておいて、よかった―― 細く開けたドアの隙間から、警察官に連れられパトカーに乗り込む岩倉の姿が見え、ふうっとため息が出た。 ここへ来たばかりの頃、プライドの高い岩倉が自分を追って来るとは思えなかったが、マスターに強く言われて病院や警察署へ行き、届けを出した。 病院のスタッフが、あざだらけの僕の体を見て、一瞬息を飲んだのを覚えている。でも、それが普通だと思っていた自分の感覚は、すでにおかしくなっていたのだろう。 今思えば、最初の夜、そんな傷だらけの僕をマスターは抱いてくれた。 きっと、酔っぱらった僕が無理やり抱いてくれとせがんだのだろう。普通なら、傷だらけの体を見てドン引きするだろうに。 酔ってほとんど覚えていないけれど、ただただ甘い快感に揺蕩(たゆた)っていたようなおぼろげな記憶がある。癒すように抱いてくれた人なんて、初めてだった。 いつだって自分を助けてくれるマスターに、申し訳なさと、どんなに押さえつけようとしても募ってしまう想いに翻弄される―― 「大丈夫かい、里村くん」 ぼうっと物思いにふけっていた僕は、オーナーの声に現実に引き戻された。 先ほど到着した白髪の六車(むぐるま)オーナーは、警察官やマスターと話をした後、カウンターの中に入り、何かを作っていた。 「…ありがとうございます。大丈夫です」 ふと視界に入った自分の左手首に赤い指跡がついていた。岩倉の跡が残っているのが、とても嫌だった。シャツの袖を伸ばして、隠す。 「…すみません。ご迷惑をおかけしてしまって」 「君が謝る必要は、全くないよ。悪いのはあの男だ」 オーナーが、カウンターに座る僕の前に湯気の立つ耐熱ガラスのティーカップを置いた。 透き通ったカップの中には、はちみつ色の飲み物が入っていた。 一口飲むと、レモンとはちみつ、そして何か優しい香りがふわりと立ちのぼる。 「ホットレモネード…ですか?」 オーナーは口元に笑みを浮かべた。 「近いね。ホット・トディと言うホットカクテルだよ。バーボンとカモミールリキュールが入っている」 「なんか……落ち着きますね」 「イギリスでは、風邪の時に飲むそうだ」 「ああ。わかる気がします」 しばらく黙って、ゆっくりと味わう。 ほんのりとした香りと甘さは、(たかぶ)りささくれ立った神経を、まるで柔らかな毛布のように優しくくるんでくれた。 オーナーもそれ以上話しかけず、その気遣いがありがたかった。 岩倉の姿を見た時の恐怖。 掴まれた腕の痛み。 せっかくマスターとの穏やかな日々で癒された古傷が、軋み出す。 もう二度とあんな日々には戻りたくない。 怖い……。 警官に事情を聞かれていたマスターが戻って来た。 「マスター、ありがとうございました。ごめんなさい。何か色々…」 「奏太が謝ることじゃない。謝らなくていいんだよ」 オーナーと同じことを言われた。 「…はい」 いつもなら、マスターは僕のことを『奏太くん』と呼ぶが、先ほど岩倉に対応した時からの続きで『奏太』のままだ――そんな些細な違いに気づいてしまう。 距離が少し近づいたように勝手に感じ、ほのかな喜びと切なさが同時に湧きあがり、即座に急ブレーキを踏むと胸の奥がきりりと痛んだ。 何も知らないマスターが、僕の髪をくしゃりと撫でる。 「君は、何でも自分のせいだと抱え込みすぎる」 温かな大きな手は、それだけで僕の皮膚温を上げる。 僕はうつむいて、ティカップの底に残る甘いはちみつを、じっと眺めるしかなかった。 「数真も飲むか? ホット・トディ」 「いえ。バーボンをストレートで飲みたい気分ですね」 「まあ、いいんじゃないか。お前なら2,3杯飲んだところで変わらんだろう」 「さすがに酔いますよ」 マスターとオーナーが笑う。 血のつながりはないと言うけれど、この二人は、すごく雰囲気が似ていた。 笑った時の目元の感じとか。すっと伸びた背筋と、穏やかそうな紳士に見えて、隙がないところとか。 元警察官だったというオーナーは、膝を怪我してリタイアしたと聞いたが、きっと現役時代は格闘技をやっていたはずだ。 そういえば。 「あの…、マスターは、柔道とかボクシングとか、してたんですか?」 「え…?」 「全部は見えなかったけど、岩倉のこと、すごく上手にかわして、倒してたから」 「ああ…。昔、ちょっと護身術をかじったことがあってね」 「すごい!それで、あんなことできるんですか? 僕も…習おうかな」 ずっと、マスターに守ってもらえるわけじゃない。 誰かに守られてばかりも、格好悪い。 自分にできることを、ちょっとずつ増やしていきたい。 「確かにそれはいいかもしれない。またあの男が来るかもしれんしな。ちょっと知り合いに聞いてみようか」 オーナーが胸元のポケットから手帳を取り出す。 「ありがとうございます」 早速オーナーは電話をかけはじめた。 「マスターって、何でもできるんですね」 見上げて言うと、マスターは複雑そうな、少し困ったような表情を浮かべた。 「…そんなことないよ」
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

73人が本棚に入れています
本棚に追加