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その夜、帰ると、いつもと変わらず、奏太はベッドでぐっすりと眠っていた。
不安で眠れないんじゃないかと心配したが、そこまでやわではなかった。
それもそうだ。
彼は高校を卒業して家を出てから、ずっと一人で生きてきたのだ。
あんな傷だらけになりながら。
俺ならば。
絶対に、奏太に傷などつけない。
左手首に、うっすらとあの男の指跡が残っていた。
奏太の左手を取り、顔を寄せると、その暗赤色の跡に上書きするようにそっと唇を押し当てた。
オーナーの紹介で、さっそく奏太は合気道の道場へ通うことに決めた。
着々と、ここから発つ準備を進める奏太。
そんなに急ぐな――
そう声をかけたい気持ちを、ぐっと飲み込んだ。
時は淡々としたスピードで進んでいく。奏太の方が正しい。
「…ん……」
微かな声に我に返ると、薄目を開けた奏太と、目が合った――左手首にキスをしたまま。
「…マスター……?」
戸惑うように発せられた言葉と、瞬時に赤く染まる奏太の頬。
恋はできないと言った自分が。
一体、何を。
「起こしてしまって、すまない」
奏太が、首を横に振る。
「おやすみ、奏太」
柔らかな前髪を少し掻き上げ、おでこにキスを落とすと、シャワーを浴びるために、風呂場へ行く。
俺は、逃げた。
奏太は、きっと混乱しているだろう。
夜中目を覚ましたら、俺に手首にキスをされていて。
自分が、恋などできるわけがない――わかっていたはずだ。
明日、奏太に何か聞かれても、軽い言い訳で逸らすだけだ。
距離を保つこと。
来週を過ぎたら、奏太の手を離すこと。
一度奏太が出て行ったら、単なる一人の客として扱うこと。
シャワーに打たれながら、最初の夜に抱いた奏太の細い体の、思いのほか熱く柔らかな中を思い出し、握り込んだ手の中に言えない想いを吐き出した。
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