4週目~臨界点

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4週目~臨界点

その後、岩倉が再び来るかと警戒したけれど、あのメガネ姿は見かけていなかった。 警察の警告が効いたのか、それか、僕の存在なんてわざわざ追いかける必要もないゴミだと片付けられたのかもしれない。 今まで通り、朝、配送センターへ出勤し、夕に買い物してから店に寄り、下拵えを手伝ってから帰る日々が戻った。 岩倉が来た日の夜、ふと目覚めた時、マスターが僕の左腕にキスしていたのは、夢だったのか、現実にあったことなのか―― あれから、マスターも僕も、そのことには触れずにいる。触れてはいけないような気がした。 なんで、どうして――無邪気な質問は、せっかくうまく回っているこの日々に突然終わりを突き付けてしまいそうな、そんな怖さを孕んでいるようで。 もうすでに、最後の4週目に入っていた。 明日旅行に行って帰ってきた翌々日には、引っ越しだ。 一月だけの同居生活は、もうすぐ終わる。 マスターと離れたくない。このままでいたい―― ふとした時に、そんな気持ちが湧き起こるが、目を閉じて過ぎ去るのを待つのを覚えた。 保護してくれたから、優しくしてくれたから、大切なことを少しずつ教えてくれたから。そんな理由づけしなくても、気づけば目で追い、傍にいたくなり、自分で自分がコントロールできなくなっていた。 ――僕は、マスターを、好きなんだろうな。 離れる直前に気づいた気持ちは、そのまま心の中に宙ぶらりんのまま置いてある。元々の約束を違えて居座ったり、マスターに気持ちを押し付けるつもりは、さらさらない。 恋人にはなれない――そう宣言されて始まった同居生活。 一月という期間設定にも、時折マスターが見せる読めない表情の中にも、もしかしたら何か事情が隠されているのかもしれないけれど、自分にはそこまで立ち入る権利はない。 行方不明の弟がいるせいで、同じような子を見るとほっとけないんだ――確か、最初の頃、マスターはそんなことを言っていた。 マスターから見た僕は、弟みたいなものなのだろう。そう思うと、マスターの優しさがよく理解でき、胸の奥がちくりと痛む。 この部屋を出てしまえば、それもおしまいだ。 とはいえ、全部を諦めたわけじゃない。 ちゃんと一人で立って、ちゃんと一人で生きていけたら。 そしたら、その時は。             ◇ 旅行の日は、早朝から快晴だった。 軽い朝食を摂ると、電車に乗った。高くそびえ立つ高層ビルの狭間の駅で箱根行きの特急列車に乗り変える。 ろくに旅行へ行ったことのない僕は、車窓を流れる景色が物珍しくて、ずっと外を見ていた。よくある町の風景かもしれないが、旅行となるとなぜか特別な感じがする。 薄レモン色の霞が混ざる都会の空が、一駅ごとに洗われて透明なブルーになっていった。 気づくと、深夜遅くまで仕事だったマスターは、いつしか眠っていた。 昨夜はたぶん3時間ぐらいしか寝ていないはずだ。そりゃ疲れているよね。 少しずつ、少しずつ僕の方へともたれて来て、肩から腕にかけてマスターの重みと温かさを感じる。 少しだけ顔をマスターの方へ向けると、黒髪が僕の頬に触れた。それだけで、胸がぎゅっと痛くなる。言えない気持ちが自分の中でぱんぱんになって、いつかぷちっと弾けてしまいそうで怖い。 意思の強そうなまっすぐの眉毛に、伏せた睫毛、すっと通った鼻筋。俳優にもなれそうな整った顔立ち。髪を下すと、20代後半に見える。 悔しいほど格好いい。こんな人と一緒にいたら、惚れても仕方ないだろう。 そっと黒髪に唇を寄せた。 マスターが起きてる時には、絶対にできないから。 ――この人、このまま自分のものになっちゃえばいいのに。 一瞬突風のような想いが、ぶわりと自分を襲った。 そんなことを思うなんて初めてのことで、呆然とした。 右腕にマスターを感じながら、僕は視線を無理やり車窓へと移した。勝手に潤んで来る視界を、まばたきでごまかした。        ◇◇ 気づくと、俺はすっかり眠っていた。 奏太が自分の左腕にもたれて眠っていた。気持ちよさそうな寝顔に、思わず笑みが浮かぶ。 今週に入り、店の客の入りが急に減っていた。 原因はわからない。 常連客は、いつも通りの時間にふらりと立ち寄ってくれるが、明らかに客足が落ちている。 昨夜は遅くまで店を開けて様子を見ていたが、普段だったら2次会、3次会の流れで来るような客が、全く来なかった。 先日の岩倉の件が響いているのだろうか。 自分としては開店前のごく短時間に片付いたと思っていたが、パトカーや警察官が駆け付ける様子を見た人は、何か訳アリの店と思ったかもしれない。 だとしたら、ほとぼりが冷めるまでしばらく待つしかない。 幸い、あと3日で奏太は離れる。うちの店にトラブルが発生したとしても、奏太へ影響は及ばないはずだ。 あの岩倉という男は、その後は奏太につきまとう様子はなく、あの時の警察の介入が一応の(くさび)となっているのだろう。 それ以外にも、オーナーや合気道の師範など、いざという時に奏太を守ってくれる人たちがいることは心強い。 俺では、自分の事情に巻き込んでしまう可能性がある。 本当は、もっと早く奏太を離すべきだった。 だが。 自分にもたれて、穏やかに眠る奏太。 手放したくない――叶えられない望みは、切り捨てていくしかないとしても。 今だけは、少し。 無防備な肩を軽く抱き寄せたが、奏太が起きる様子はなかった。
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