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「…奏太。奏太」
肩を軽く揺すられて、目を開ける。
「もうすぐ着くよ」
いつしか、僕はマスターに寄りかかって眠っていたらしい。慌てて離れる。
「あ…ごめんなさい」
「俺もずっと寝ていて、さっき起きたばかりだから」
車窓には、ところどころに紅葉した木々の混ざる山の斜面と、川沿いに広がる街並みが見えた。
自分の中で箱根は、物語で目指す特別な場所のように、もっと遠くてもっと長く電車に乗らなければたどり着けないところのはずだった。
ひと眠りしたらあっという間に着くなんて、ちょっと裏切られたような、ちょっともったいないことをしてしまったような気がして、終点のアナウンスを聞きながら、午前の光を反射してきらきらと光る川をぼうっと眺めていた。
「どうした?」
マスターの声で現実へ引き戻され、「何でもないです」と首を振り、降りる準備をする。
同居生活終わりのカウントダウンが始まってから、些細な時間がすごく貴重に感じるようになった。
今までそんなことを思ったことがなかった。
むしろ、時間なんて早く過ぎてくれ、さっさとこの苦しい人生が終わってくれ、と思っていたのに。
マスターに続いて、電車を降りた。
東京には無駄な緑がないけれど、ここは緑だらけだった。自然が近い。それだけで空気が違う。
箱根湯本駅でレンタカーを借りる。
どこか行きたいところはある?――ガイドブックを見ながら、何度か聞かれたけど、自分にはよくわからなかった。自分の希望を言うこと自体、慣れてないから戸惑ってしまう。
「火山って、実際見たことある?」
「ないです」
「じゃあ、大涌谷へ行ってみよう。岩場のあちこちから湯気が上がってて、まさに火山って感じだし、黒たまごもあるよ」
「黒たまご?」
「黒いゆでたまご」
僕の頭に、はてなマークがたくさん飛んでいるのを察して、マスターが笑う。
「温泉でゆでた卵だよ。確か、卵の殻に温泉の鉄成分が吸着して、火山ガスの硫化水素と反応して硫化鉄の黒い色になるんだ」
「ふーん……」
説明を聞いても、いまいちわからない。化学はあまり得意じゃなかった。そもそも、真っ黒なゆでたまごって美味しいのだろうか。
「まあ、見たらわかるよ」
山頂の大涌谷を目指して、車は山道を登っていく。
「マスター、車運転できるんですね」
「もともと地方出身だからね。田舎は車がないと何もできないよ。バスは路線も限られているし、ひどいと30分とか1時間に1本とか。買い物も病院も仕事へ行くのも、車がないと大変だった」
「そうなんだ…」
「東京には、電車も地下鉄もバスもあって、贅沢すぎるよ」
マスター自身のことは、あまり聞いたことがなかった。何となく、深入りはしていけないような気がしていた。
「地方…って、どこなんですか?」
「んー、北の方」
「東京には、いつ頃来たんですか」
「…6年前かな」
「仕事で?」
「まあ、そんなところだね」
あいまいな言葉に、それ以上は踏み込んで欲しくないような空気を感じ、僕はそれ以上は問わず、車窓の向こうの紅葉の木々を眺めた。
こういう微妙な雰囲気を察するのは得意だった。長年、地雷原で育った癖のようなものだ。これを言ったらまずい、叱られる、叩かれる――マスターはそんなことしないとわかっているけれども。
空気のように存在を消して、嵐が行き過ぎるのを待つ。
運転席から伸びた左手が自分の髪に微かに触れた瞬間、思わずびくりと体を引いてしまった。
殴られる、と身構えてしまうのは仕方ない条件反射だ。
マスターの大きな手は、まるで大丈夫だよ、と言うように僕の髪をくしゃりと撫でた。
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