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黒たまごは、美味しかった。真っ黒な殻をむけば、普通の白いゆでたまごがつるんと現れる。
晴天に映える富士山を見ながら、マスターと並んで座って食べる。
秋の濃い青空に、白い雲が流れていく。山の上は、いつもよりずいぶん雲が近い。
「なんか、腐ったようなにおいがする…」
「ああ。火山性ガスに含まれている硫化水素のにおいだよ。よく『硫黄のにおい』って言われるやつなんだけど、実際の硫黄自体は無臭なんだ」
「…マスターって、物知りですよね。さっきも、ここに来る途中で外輪山とかカルデラとか、教えてくれたじゃないですか」
「…もしかして、うざい、と思ってる?」
マスターが心配そうに聞いてくるから、僕は笑って首を横に振った。
「え。それは全然ないです。前も言ったけど、僕は旅行とかしたことないし、こういうところで、実物を見ながら教えてもらうと、すごくわかりやすいです。マスターの話、面白いなって思ってますから」
「ありがとう。それならいいけど、あまりうるさい時は言ってくれ」
「マスター、心配しすぎ」
ふふっと笑って、僕はたまごを一口齧った。ちょっと塩をつけるだけで、十分美味しい。
確かに、マスターは教えたがりのところがあるかもしれない。でも、物を知らない僕にはちょうどいい。
僕は、みんなが常識で知ってるようなことを、知らないことが結構ある。それで、悔しい思いをしたことも多々。
勉強はやる時間がなかった。わからないところは、わからないまま進んでいって、置いてかれた。膝を抱えてうずくまっている僕に、初めて手を差し伸べてくれたのが、マスターだった。
「マスターは色々教えてくれるから、ホントに僕の師匠って意味で『マスター』ですよね」
「…奏太。旅行中は、『マスター』じゃなくて、名前で呼んでくれないかな」
たまごの殻をむきながら、さらりと言われた。
「え。…いいですけど」
僕は食べかけのたまごを、ごくりと飲み込んだ。黄身がちょっとのどに引っかかる。
「…伊藤さん……?」
戸惑いつつ言うと、マスターが吹き出した。
「それはないだろう」
「だって、職場の上司だったら、そうでしょ?」
「俺は職場の上司か…?」
マスターは微妙そうな表情を浮かべた。
店では、マスターと調理担当だから…と思ったけど。上司かって言われると。
「違うかな……」
でも、僕たちの関係は何て言ったらいいのだろう。
酔っぱらってお店で寝てしまった客と、保護してくれたマスター。
友達ではないし、単なる知り合いでもないし、保護者でもない。
もちろん、恋人でもない。
自分にとっては、マスターなんだけど。
確かに、店や旅館で『マスター、マスター』って言ったら、『この人たち、何なの?』って思われてしまうかもしれない、というのは、わかる。
けど。
「………数真さん」
意を決して名を呼んだ瞬間、顔がめちゃめちゃ熱く赤くなったのがわかった。
これは、すごく、恥ずかしい。
自分が意識しすぎなのが自覚させられて、つらい。
なんだよ、まるで恋人みたいじゃん。恋人でもないのに。恥ずかしすぎる。
横を見上げると、マスターの頬もうっすらと赤い。
「……なんだか、照れるね」
「じゃあ、『マスター』でいいですよね」
「いや。数真、で頼む」
「……数真さん、黒たまごに、もう少し塩つけます?」
「意外と慣れるの、早いな」
「慣れてませんよ。これでも、めちゃめちゃがんばってるんです」
「そうか。ありがとうな」
そういうと、マスターは目を細めて、僕の髪をくしゃりと撫でた。
胸の奥が、また、ぎゅっと掴まれたように痛い。
◇
せっかくだから、とマスターは芦ノ湖をめぐる道をドライブしてくれた。
途中の展望台から眺めた、冠雪した富士山と青空を映した湖のコントラストがすごくきれいだった。
僕が色々なことを教えて、と言ったからか、マスターはこのルートがまさに外輪山なんだよ、とか、火山の山体崩壊で川が堰き止められて芦ノ湖ができたんだよとか、教えてくれた。そんな風に生き生きと話してくれる姿が初めてだったから、なんだか僕もうれしくなってしまった。
そういえば、以前訪れたのは美術館だったから、あまり話すことができなかったのかも、と思い返す。もしかしたら、あの時も僕が質問したら、教えてくれたのかもしれない――もう、一緒に行く機会はないけれど。
観光スポットをめぐり、また山道を登って仙石原高原のススキ草原を訪れたのは夕方遅くだった。
一面のススキが西日に金色に光り、時折吹く風にさわさわと音を立ててなびく。平日の日暮れのせいか人が少なく、遠くに老夫婦が歩くだけで、僕たち二人しかいない。とても贅沢だ。
秋の風の中で、僕は背伸びした。
マスターが、ぐーっと伸びをする僕を見て「猫みたいだな」と笑った。
この旅行に来てから、マスターはよく笑う。
だから、僕も笑顔になる。
なのに、笑顔なのに、突如、泣きたくなった。
今日、マスターとの距離がずいぶん近づいた気がする。
けれども。
絶対に手に入らないものを、こんな簡単に差し出されて、でも、手に取ることはできない。
泣いてすがって、手に入れようとなんて、思わない。
最後の日も、笑って、『じゃあ、また』って別れたい――
誰もいない金色のススキの小道を、二人並んで歩く。
空が、だんだんと光を失い、濃いオレンジ色になっていく。
「死んだら、こういうところに行けるのかな」
ぽつりと言ったら、マスターが「そうかもな」と応えてくれた。
マスターは、「縁起でもない」とか、ありふれた言葉でたしなめたりしない――なんとなく、マスターも闇を抱えていることには、気づいていた。
が、それは、僕が簡単に近づけるものでもない。
これから、何年先、何十年先、いつかわからないけれど。
この世を離れた時に。
たぶん、僕は、金色の野原の中で一人、マスターを探すんだろうな――
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