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山の中腹にある温泉宿は、木々に囲まれこんじんまりとして見えた。
入ってすぐの待合のソファに座っていると、仲居さんがお茶と和菓子を出してくれた。こんな雰囲気に慣れてない僕は、慌てて頭を下げる。
マスターが宿帳をさらさらと書いている間、僕はもみじの葉のような和菓子を口に入れた。優しい甘さにほっとする。
窓辺からは夕暮れの空とライトアップされた木々が見えた。
なんか、すごく贅沢だ――
宿には本館と離れがあり、離れは山肌の傾斜地にそれぞれが建っており、仲居さんの先導で階段のある廊下を下っていく。
部屋には、檜の露天風呂がついているという。
「本館にも大浴場がありますが、夜11時で閉まりますのでご注意下さい。翌朝は5時から入れます。お食事は時間になったらお部屋にお持ちいたしますね」
仲居さんはにこりと笑みを浮かべ、「では、どうぞごゆっくりお過ごし下さい」と丁寧な一礼をすると去っていった。
建物に派手さはないけれども、廊下や部屋には秋の花が生けられており、調度品からも品の良さが漂っている。
まさか、こんな高級そうなところとは思っていなかった。
全く相場がわからないけど、きっと、自分では絶対に泊まることのできないようなところだとは、わかる。
部屋は二間あり、座卓とテレビのある居間の板の間の向こうの窓の外には、湯気の立つ露天風呂。
もう一部屋は少し狭いけど、一段高くなったフローリングにマットレスだけの低いベッドが、すでにぴしりとベッドメーキングされていた。2つくっついて並ぶベッドに、思わず目を逸らしてしまった――自意識過剰すぎるのだろうけど。
「どうする?大浴場に行ってみようか」
マスターはさらりと言うと、浴衣に着替え始めた。
僕は戸惑いつつ、「…はい」とうなずいて真似をする。
こんな高級温泉旅館に来ることも、こんな時間に風呂に入ることも、まして、マスターと一緒に入ったこともない。……色々といっぱいいっぱいだ。
浴衣をうまく着れずにもたついていると、マスターが手伝ってくれた。すごく近い距離に、顔が熱くなる。
本館にある大浴場は他のお客さんもいたので、かえって気楽だった。
露天風呂のマスターの隣に入る。源泉かけ流しという白濁した湯は、少し熱くて滑らかだった。
「なんか、すごいことの連続で、気持ちが追いついていないんですけど」
「すごいこと?」
「旅行に来るのも、こんなすごい旅館に泊まることも、今までなかったから」
「困ってる…?」
「全然。困ってるとかじゃなくて、うれしすぎてキャパオーバー気味です」
「この後、ごちそうが待ってるけど、大丈夫?」
「それは、大丈夫です。すっごく楽しみ」
「奏太は食いしん坊だからな」
「…否定しません」
「悪い意味じゃないよ。食べるのが好きだからこそ、工夫するし上手いんだろうな」
マスターと他愛ない話をしてるのが、うれしかった。
時折目に入ってしまうマスターの体を、できるだけ見ないように、平常心を保とうと自分に言い聞かせているうちに、いつもよりも長く入ってしまった。
贅沢すぎる時間に、のぼせた。
何とか部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
「はい、水」
「…すみません」
風呂でのぼせてダウンするなんて、かっこ悪すぎる。
マスターが持ってきてくれた冷たい水を飲むと、ちょっと気分がすっきりした。
「あちこち連れまわした疲れもあったかな」
「そんなことないです。今日はホントにすごく楽しかった。…ちょっとお湯が熱かったけど、がんばって温泉に入ってたから……」
「そこは、そんなにがんばらなくてもよかったんじゃないか」
マスターが笑う。
でも、マスターと一緒にいたかったから。
ベッドに腰かけるマスターを見上げる。少し濡れた髪の湯上りのマスターは5倍増しでカッコいい。
ああ、もう、このまま、この時間が続けばいいのに――とか、思ってしまう。
マスターの指が僕の前髪をはらうと、熱を確かめるように、大きな手がひたりとおでこに置かれた。
「少しは冷めたかな」
細められたまなざし。
逆に、熱が上がりそうだ。
マスターの手は、額からの自然な流れで頬を包んだ。
「もう少しゆっくりしていなさい」
「……はい」
まるで恋人にするような甘いしぐさに、心臓がどきどきとうるさく鳴った。
少し落とした照明の中、一人ベッドで寝がえりをうつ。
意識しすぎなのは、わかってる。
けど、しょうがないじゃないか。
好きな人と、二人きりでこんなところにいて、こんなに甘くされて、期待しないやつがいるだろうか。
昔の自分は寂しさから、誰かに抱いてほしいと思っていた。好きとか、恋愛感情なんてよくわからなかった。寂しさを埋めてくれるなら、誰でもよかった。
今は。
疑いようもなく、自分はマスターが好きだ。
離れなければならないのはわかっているけど、こんな機会は二度とない。
マスターとしたい。
マスターに抱かれたい。
これは、もう、正直な気持ちで、認めるしかない。
どうする? 頼んでみる?
マスターがどういうつもりなのかは、全くわからない。
拒絶されたら……と思うと、怖いし、恥ずかしい。
でも。
暗がりに手を伸ばす。
今なら、こうして手を伸ばせば、マスターに触れることができる。
肘を曲げて、空を抱きしめる。
マスターがここにいてくれたら、抱きしめられる。
離れてしまったら、二度とそんなことはできなくなる。
そう思っただけで、胸がきりきり痛む。
ほんの数週間前は、きれいに別れよう、なんて誓いを立てていたのに。
恋の沼に頭まで沈められた僕は、マスターを全身で欲しがるようになってしまった。でも、それは決して嫌な感覚じゃなかった。
体の奥にマスターが欲しかった。
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