4週目~臨界点

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自家製という琥珀色の梅酒が添えられた先付から、煮物、お造り…と料理が運ばれてくるたび、奏太は目を丸くし、口に入れては、今度は目を細める。 「すっごくおいしい…。これ、何で和えてあるんだろう。ゴマじゃないし」 「クルミですね」 焼き魚を置きながら、仲居さんがにこりと答える。 「青菜のクルミ和え…今度やってみようかな」 こういう和食には日本酒が合う。せっかくなので、地酒を頼み、奏太にも注ぐ。 手のひらに収まるガラスのぐい吞みに唇をつけて、「美味しい…」とつぶやいた奏太が、 「でも、1杯だけにしとく」 と、きっぱり言った。 「もう少し飲めるだろう?」 「飲んだら寝ちゃうし」 確かに最初の日、奏太はブランデーエッグノッグ2杯でカウンターに突っ伏して寝てしまった。 「今日は、酔ったらすぐベッドで寝れるよ」 「でも。…もったいないから」 その気持ちは、わかる。 部屋での食事が終わり片付けが済むと、奏太はやはり少し酔ったのか、ぼんやりとテレビを見ていた。 冷水のコップを置くと、 「…あ。ありがとうございます」 と、素直にこくりと飲んだ。 浴衣からのぞく白いのど元がゆっくりと動くのを、(なま)めかしく感じて、思わず目を逸らした。 温泉を選んだのは、奏太のあざだらけの体が記憶に強く残り、癒してやりたいと思ったからだった。奏太を抱くためにこの旅行を計画したわけじゃない。 だが、全く考えなかったといえば、嘘になる。 この4週間で、少しずつ自分の心の中に入り込んできた奏太。日常の些細なことも、今は当然一緒にいるものとして考えるようになっていた。もしも、このまま一緒に暮らしたのならば、きっと奏太を恋人にしたくなっただろう。 自分の中でまだ解決しない過去に足首を掴まれたままの6年間。 俺だけが生きていていいのか――ずっと自問してきた。 偶然オーナーに拾われ、バーテンダーとして育ててもらい、自分を知る人のいない東京で静かに死を待つように暮らしてきた。 もう、好きなものに心を動かされることも、まして人に心を動かされることなど、ないと思っていた。大切なものなど作れないし、作ろうとも思わなかった。 そんな自分を、奏太はあっけなく変えた。 この子は危険だ――恐らく自分は無意識に感じ取り、同居の期限を切って、恋人にはなれない、と距離を取った…はずが。 「…数真さん、部屋の露天風呂、入ってもいいですか?」 「酔ってるだろう。大丈夫か?」 「大丈夫です。そんなに酔ってないから。さっき、水飲んで復活したし」 「そうか。ならいいけど、無理するなよ」 「数真さんって、結構過保護だよね」 奏太が笑う。 思わず、言葉に詰まる。自覚はなかったが、言われてみれば過保護になっているかもしれない。奏太の事情が事情だから仕方ないだろう、と心の中で言い訳をする。 「……でも、そういうの、ちょっとうれしいかも」 奏太はそう言うと、バスタオルを持って窓の外の板の間へと出て行った。頬から耳にかけて、ほんのりと赤くなっているのが見えた。 以前、奏太は恋愛感情がわからないと言っていた。奏太の過去を思えば仕方のないことだと思う。 そんな奏太から好意を持たれていると感じるのは、自意識過剰ばかりではないだろう。だが、奏太の好意は、保護してくれる者への思慕ではないかと思う。実の親から十分に愛されず、満たされなかった幼い心が、優しい誰かを求めている―― 自分の想いとは、だいぶ温度も色合いも異なる。 嫌と言うことが苦手な奏太は、現在の保護者である俺の意向を汲んで、流されやすい。もしもそんな奏太を抱いてしまったら――自分が今までの男たちと同列に並んでしまうことに、嫌悪感を覚える。 その一方で、手に入れたいという欲望は、抑えても抑えてもじわじわと浸食してくる。 あと数日で別れる奏太とは、もう二度とこんな機会はないだろう。 だが、なのか。だからこそ、なのか。 相反する想いが絡まり合って、どうしようもなくなり、結局棚上げすることを繰り返していた。 テーブルの上のスマホが震えた。オーナーからだった。 最近の客の減少が気になり、定休日だが店の様子を見に行ってもらっていた。 「数真。どうだ? 箱根は」 「天気が良くて、富士山の眺めが最高でしたよ」 「今のところ、店は特に変わった様子はない。数真が気にするのもわかるが、まあ、少し様子を見るしかないだろう。今までも、はっきりとした理由がなく客足が落ちることはあったからな」 「…わかりました」 「里村くんは楽しんでいるか?」 「ええ。初めての旅行に、はしゃいでますよ」 「そうか。まあ、明日もゆっくり観光して来たらいい」 「いえ。店がありますから、それほど遅くならないうちに帰ります」 「真面目だな、数真は」 オーナーが電話の向こうで苦笑した。 岩倉の襲撃後から急に落ちた客足。何か関連があるのかと警戒していたが、オーナーの言うように考えすぎなのかもしれない。 店の予約サイトもチェックしたが、予約は1件も入ってなかった。違和感は完全に拭えないが、今は何もしようがない。 スマホを置き、ふと目を外へと転じる。 山の斜面に張り出した板の間の露天風呂から湯気が立ち上っていた。 板の間に膝をついた奏太は、水栓を開けて湯をかき混ぜていた。熱い湯が苦手なのだろう。白い背に目を奪われる。 男なのに、綺麗だと思う。 肩や腰は女性のように丸くない。伸びやかな直線で描かれた、若い鹿のようだ。 湯に入った奏太は、わあ、と声を上げて、風呂から身を乗り出した。夜空を見上げているようだった。きっと、山の澄んだ空気の中、星がたくさん見えるのだろう。 しばらく上を見上げて寒くなったのか、湯に沈み、とん、と湯船に背を預けた。横顔と首から肩のラインが見える。 奏太が、ふいにこちらを見た。 ごまかしようもなく、目が合った。 ピンと張った一本の細い糸のように、互いに目を逸らせず、ガラスを隔てて見つめ合う。 ――来て。 奏太の目がそう言ったように見えたのは、自分の無意識の願望を転写したせいかもしれない。 だが。 俺は立ち上がると帯を緩め、肩から浴衣を落とした。 窓を開ける音に振り向かず、奏太は湯船から夜空を見上げていた。 自分も何も言わずに、奏太の隣に身を沈めた。 「少しぬるくし過ぎたかも…」 「いいよ。ちょうどいい」 下弦の月が東の空に浮かび、見上げれば全天に星が散りばめられていた。西側は山の斜面を覆う木々で視界が遮られている。 「秋の南の空には明るい星が少ないんだけど、有名な1等星の名前は知ってる?」 「え…なんだっけ。わからない…です」 「フォーマルハウト。南のうお座って、聞いたことない?」 「あ…なんとなく、あるかも」 「南の低い空…地平線からげんこつ3つ分ぐらい上のところに光ってるはずだ」 「げんこつ3つ…?」 「腕を伸ばして、げんこつ1つの角度が10度。フォーマルハウトはだいたい30度ぐらいだから3つぐらい上を探すと、明るい星が見つかるよ」 奏太とやってみるが、木が邪魔して見えない。 「…無理そう」 「だね。東京でも見通しがいいところだと、見えるはずだよ」 「そうなんだ。…今度、探してみる」 「ちなみにフォーマルハウトは、アラビア語で大きな魚の口って意味なんだ。じゃあ、冬の星座で何か知っているのはある?」 「オリオン座とか?」 「そう。他には?」 「…えーと、おおいぬ座。確か、シリウスの」 「正解、よく知ってるな。…じゃあ、冬の大三角形と言えば、オリオン座のベテルギウスと、シリウスと、あともう一つ」 「えー……わからない」 「こいぬ座のプロキオン」 「数馬さんって、先生みたい」 奏太が無邪気に言った。 どきりと心臓が跳ねた。 「先生みたい…か」 「んー、なんとなく。昼間も火山のこととか色々教えてくれて、すごくわかりやすかったし」 柔らかく白濁した湯の中で、二人の指が触れた。 小指と薬指が互いを探すように絡み合う。 指に心臓が宿ったみたいに、そこからの熱が、拍動とともに全身へ巡っていく。 「昔、先生だった…って言ったら?」 「え…」 「…高校教師だったことがある」 「そうなの…?」 「色々あって、やめたんだけどね」 「まさか…生徒と…不祥事とか?」 思わず、大きく吹き出した。 「その誤解はひどいな。さすがに、生徒に手を出したことはないよ」 「だって、数真さん、カッコいいから…。生徒にモテたでしょ…?」 中指までが絡まる。 「そうでもないよ」 奏太が少しだけ自分に近づいた。お互いの腕が触れる。 肌の触れ合う感覚が、全身の神経をざわめかせ、体の奥の熾火の温度を上げた。 湯の中で、全ての指と指が絡まり合った。 指先で奏太の指の輪郭を何度もなぞると、奏太の指がそれに応えるようにぎゅっと握り込んだ。まるで、手だけで交情しているようだ。 湯が不規則に揺れる。 奏太が耐えきれないように小さく息を吐いて、こちらを見上げた。明らかに熱を帯びた(はしばみ)色がかった瞳が、自分を貫く。 次の瞬間、俺はまっすぐに奏太へと堕ちていった。
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