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episode 1~最初の日
「はぁ!? 疲れた?疲れているのはこっちだ!」
冷たいフローリングの床に打ち付けられた左腕が痛み、口の中に血の味がじわりと広がる。
自分に従うのが当然という束縛と、少しの要望でも言おうものなら、100倍で返ってくる文句。機嫌を損ねないように、気を遣い続ける生活に、疲れた。
「お前はたかがバイトだろう。こっちは正社員で働いているんだ。家賃だって俺が払ってる。お前は単なる居候じゃないか!文句言うなら、出ていけ!!」
いつもなら、ごめんなさい、僕が悪かった、許して――事を荒立てたくなくて、無意識に機嫌を取ろうとしてしまうけれど。
「出てく。さようなら」
スポーツバッグ一つの簡単な荷物しかない僕は、乾いた洗濯ものだけ突っ込み、部屋を出た。
プライドだけやたら高いあいつは、絶対に非を認めないし、謝ることもないだろう。
何で、僕はこうなのだろう。
優しい人だと思ったのに。最初は。
少し経つと、失敗したことに気づく。
ひ弱そうな外見のせいだろうか。
庇護欲を刺激するんじゃない?とゲイ友達に言われたこともある。
所持金。なくは…ない。
路地裏にひっそりと佇むダークオークの扉。淡いライトが看板を照らす。
『Laisser tomber』
…読めない。意味わからない。けど。
昔、友達に連れられて、一度だけ来たことがある。カクテルが美味しかった。
今、たった一杯でいいから、何か飲みたかった。
ここは、確かお任せで作ってくれるから、ややこしいメニュー表を見なくてもよかった。
今は、何かを選ぶ気になれない。
「いらっしゃいませ」
グラスを拭きながら、背の高い黒髪のマスターが、迎える。マスターと言っても、そんなに年じゃない。見た目、30ぐらい。
客は、テーブル席に、1組。カウンターに1組。
僕はカウンターの端っこに座った。
「どうぞ」
グラスに氷なしのミネラルウォーターと、おしぼりが二つ。
「え?」
僕一人なんですけど。という顔でマスターを見上げると、人差し指で自分の口元を指差し、
「冷たい水はしみるでしょう?」
と、穏やかな笑みと少し気遣うようなまなざしが返ってきた。
僕は口の端におしぼりを押し当て、うつ向く。
明日にはアザになってしまうかもしれない。バイト先ではマスクでごまかそう。
「何にいたしますか?」
「おまかせで」
「承知しました。……差し支えなければ、少しお聞きしてもよろしいですか。話したくないことは、答えなくてもいいですから」
「…はい」
常温のミネラルウォーターを飲むと、口の傷にしみることなく、カリカリに干からびていた体に、すうっと染み込んでいった。
「今の気分は…?」
「え…」
予想してなかったところから、球が飛んできた。
気分。そう。
「ほっとした…かな。スッキリした…かも」
もう無理だ、しんどい、でも、自分が悪いから自分のせいだから――そんな呪縛から、やっと、逃れたから。
「大切なものは、何かありますか?」
また、予想のつかない質問だ。
大切なもの…。
一生懸命、心の中を探っても、真っ白な広い床にぽつんと座り込んでいる自分には、何も、見つからない。
「わからない…です」
日々、ただ死んでないから、生きている、だけ。
もし、小さな虫みたいに、プチっと踏み潰されて死んでも、誰も気にしないし、誰も気づかないだろう。
家族の縁なんて、とっくに切れてる。
バイトだって、いくらでも自分の代わりはいる。
「これから、どうするつもりですか?」
「え」
隠れ家的な品のいい店に不似合いな、Tシャツにジーンズ、くたびれたスニーカー、スポーツバッグを持った、顔に殴られた傷のある貧相な若い男。
そりゃ、大丈夫か、お前……って思うよな。
「…さあ……」
まともな答えすら、出てこない。
もう、どうでもいいや。
適当な店で、適当な相手探して。一晩過ごせれば。また明日は明日、考えれば。
小皿のナッツを口に放り込む。ちょっとだけ塩がしみた。生きてる証拠…か。
「どうぞ」
タンブラーに、柔らかな白褐色のカクテル。上に褐色のパウダーが少しのっている。
一口飲むと、優しい甘さが広がった。
ほうっとため息が出る。
「これ、アルコール、入ってます?」
「ええ。ブランデーが」
「なんか、懐かしい味ですね。なんだろう…」
マスターが、ふっと口元に笑みをうかべた。
◇
よく磨かれた一枚板のカウンターテーブルに突っ伏して寝てしまったらしい。
疲れてたから。それまで、ろくに寝せてもらえず。
ヤバい状態に片足突っ込んでいたのは、自覚してたけれど。
なんで、人を支配することで、自己顕示欲を満たそうとする輩が多いのだろう。
そして何で自分は、そんなのにばかりに引っ掛かるんだろう。
気づいたら、ベッドに裸で寝ていた。
隣に、あのマスター。
髪を下ろして、目を閉じてると、意外ともっと若いのかもしれない。
微かに、抱かれた記憶があるから、そうなのだろう。
ひたすら、甘く蕩かされたような。限りなく続く絶頂感に、我を忘れるくらい。
腰の辺りが、重くだるい。
でも、イヤな感じはしない。
「…起きた?」
敬語なしの低音が、耳に心地よい。
頷くと、抱き寄せられた。
「あの…すみません。迷惑かけちゃって」
低音が、笑う。
「君、人が良すぎ」
「え」
「酔ってるところを、無理やり犯されたって、怒っていいのに」
それは、違う気がする。
たぶん、救ってもらったのだ。
あのまま店から放り出されたら、もっともっとヤバいことになってたかもしれない。
「弟、探しててね」
マスターは言う。
「何年か前に、東京へ行くって言って、そのまま帰らず。一体、今、どこで何をしているのか……」
大きな手が、髪を梳いてくれる。
「だから、君みたいな子を見ると、放っとけないんだ。後は、好みだったからってのも大きいかな。ホントはお客さんに手を出してはいけないし、出すつもりじゃなかったんだけど。ゴメンね」
そう言って、僕のおでこにキスをした。
もしかしたら、僕が人寂しくて、抱いて欲しいとせがんだのかもしれない。
たぶん、そっちが、正解だ。
温かな腕が心地よくて、すり寄ると、柔らかく抱きしめてくれた。
何だか、固く固く押し固められていたものが自然に緩んで。
涙が出た。
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