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相転移 phase transition 1
旅行から帰ると、すぐにパソコンを立ち上げた。
東京へ戻ると、どうしても店のことが気になってしまう。その後、何度確認しても、予約は1件も入っていなかった。
感知ぎりぎりの不穏な揺れが、通奏低音のように微かに響いているようで落ち着かない。
「数真さんの洗濯物、これでよかった?今から洗うね」
「ああ。ありがとう」
「どういたしまして」
にこりと笑みを浮かべる奏太を引き寄せた。合わせた唇が離れると、奏太は伏し目がちに洗濯機のある洗面所へと行った。
距離が近づくほど後がつらくなるのは分かっているのに、触れてしまう矛盾。
今日入れて、あと3日――
メールチェックすると、久しぶりに見る名前があった。山崎という小学校からの幼馴染だ。
無口で無駄なことは一切言わないが、どんなに俺が世間から叩かれどん底に落ちた時でも、昔と同じ距離で接してくれた数少ない友人だ。
余程のことがない限り、山崎はメールなど寄越さない。懐かしさよりも、先に異状を感じて無意識に警戒態勢に入る。
奴らしい、件名のないメールを開くと、
『数真、元気か。こんなのがネットに載っていたが、気づいているか。何かあったら、連絡くれ。』
という簡潔な文と一緒に、SNSのURLが貼ってあった。
クリックすると、ごく短い動画が再生される。
先日の、あの店前での岩倉とのトラブルのものだった。
パンチをかわし、岩倉の腕を掴みつつ、足を払って地面に倒す自分の姿。
【バーのマスター 暴れる客を秒で制圧】
『え、これ、素人?』
『まじカッコいい』
『こんなの惚れるわ…』
コメントは、どちらかというと好意的なものが多い。
確かあの時、スマホをこちらへ向ける若者がいた。まさか、こんなものをネットに上げられるとは――
画面をスクロールする手が、止まった。
『これ、五百蔵先生っぽくない?』
一瞬で全身が凍る。
『誰、それ』
『知らんし』
『なんか、その名前聞いたことある』
『事件がらみ?』
『これじゃね』
――五百蔵 数真。元私立K高校教諭。
A高校いじめ自殺事件の加害者、五百蔵 玲也の兄。
ネットのどこかから拾って来た、小学生の頃の少し輪郭のぼやけた玲也と、K高校の卒業アルバムから切り取られたスーツ姿の自分の画像が貼られていた。
『いじめられた子がネットにいじめ告発して自殺した事件』
『あー、いじめの内容とか名前とか全部ばらされたやつね』
『被害者、勇気あるな』
『遺書だと場合によってはもみ消されることもあるからな。かしこい』
『”調査しましたが、いじめの事実は確認できませんでした”←学校や教育委員会がよく言うやつ』
『確かその後、いじめた加害者も自殺した』
『死に逃げかよ』
『罪に向き合えない小心者。だからいじめなんてやるんだろうな』
『加害者の兄も同罪だろ。絶対に兄の影響受けてるはず』
『加害者の兄が高校教師とか、あり得ない。絶対に教わりたくない』
『五百蔵先生はいい先生だったよ』
『は?なに、関係者?』
『いじめ擁護とか、理解できないんだけど』
震える手で別のURLをクリックすると、そちらは明らかに悪意を持って編集されたものだった。
先ほどと同じ動画に、
【いじめ加害者の兄 暴力事件】
という表題がつけられ、自分の店の名前と住所が載っていた。
まとめサイトへのURLも貼られ、そこには6年前の事件の詳細を、明らかに弟の玲也を非道な加害者に仕立てた記事が載っていた。
自分と玲也への、読むに堪えないコメントが並ぶ。
パソコンを、閉じた。
また、だ。
また、掴まった。
どす黒い得体のしれない思念が、自分を捕らえ、地獄へと引きずり込む。
いじめられた経験を持つ人や義憤にかられた人――色々な立場の人がいて、報道直後に加害者が非難されるのは分かる。
だが、時間が経ってもどこまでも執拗に追いかけては、私生活を暴き、叩きのめす者もいる。彼らは、それを正義と言う。
掴まったら最後、社会的な死をただ俯いて静かに受け入れていなければならない。少しでも顔を上げようものなら、潰される――
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