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寂しさと向き合うのは、苦手だ。
足元にぽかりと空いた底なし沼を覗き込むようで、うっかり足を滑らしたら最後、どこまでも深い闇へと落ちていく。
闇の底は、誰も助けに来ない、とてもとても寒いところ。
僕は、膝を抱えてうずくまって震えている、小さな子どもになる。
恐怖が、真っ黒な手のようにいくつもいくつも襲いかかって来る。
――だから、安易に人肌を求めてしまうのかもしれない。
支配されることが大嫌いなくせに、支配したがるような奴に、近づいてしまう。
相手の顔色を窺い、相手に合わせ、常に、相手の正解を探りながら、息をするにも気を使って、生きる。
苦しいのに、ちょっとでもやさしくされると、ミッションをクリアできたような気持ちになる。
きついのに、日々そうして我慢していれば、絶望的な寂しさからは逃れられた。
マスターのように、暴力を振るわない人は、居心地はよくても、苦手だった。
この人は、何が目的で優しくしてくれるんだろう――本心を探り過ぎて、ちっとも落ち着かない。
いつか、飽きて捨てられる――常に不安と焦燥に駆られ、空回りしては、疲れ切ってしまう。
結局、自分が耐えきれずに逃げ出したり、俺の不安につき合いきれずに相手が逃げたり。
罵声を浴びせ殴るような奴の方がつき合いやすいなんて、歪み過ぎている。
じゃあ、どうしたらいいんだ。
それが、わからない。
◇◇
バーテンダーの仕事は、酒を提供するだけではない。
一杯の美味しい酒とともに、癒しと、居心地の良い空間をいかに作り出せるか。
老オーナーの背中から学んだつもりだが、まだまだあの域に到達するには長い時間がかかるだろう。
酒が入り、ぽろりとこぼれた本音を受け止め、時に球をそっと打ち返し、時にそのまま受け流す。
うまく打ち返そうとは思わない。
それは、本職のカウンセラーがすることだ。
静かに過ごしたい人には、温かな静寂を。楽しみたい人には、程よい会話を。
昔の職場で相対していた子らとはまた違った相手へと、日々向かう。
昨夜拾った子は、泊めてくれたお礼に、と朝食を作ってくれた。
冷蔵庫の野菜室の片隅に残っていたじゃがいもでハッシュドポテトと、目玉焼き。
思いの外、手際が良い。
千切りにしたジャガイモをバターで焼いて、塩コショウしただけだと言うが、これが、目玉焼きと合う。
黄身は丁度良い半熟だ。フォークを入れると、とろりと崩れた。
添えられたベーコンは、俺の好みを聞き、じっくりカリカリに仕上げてくれた。
「料理、上手いんだね」
パンを頬張る彼は、きょとんとした。
「そうかな…。適当だよ」
「褒められたりしないの?」
「…誰に?」
そう返す彼の目に、陰が差すのが見えた。
家族とか恋人とか――というセリフは、言わなかった。
聞かずとも、答えはわかる。
「美味しかったよ。ごちそうさま」
そう言うと、彼は少しだけ笑みを浮かべた。
◇◇
家に居場所なんてなかった。
兄妹に比べ、何の取り柄もない自分は、皆の不機嫌の捌け口だった。
家族からは、普段はいない者として無視され、何かあると、些細なことで怒られ殴られた。
他の家族には食事が出されても、自分にはないことも、ざらだった。
親が怒らない程度の少しの食材で自分のご飯を作り、後は給食やバイト先のまかないで何とか済ませた。パン屋のバイトは売れ残りのパンがもらえて、とても助かった。
庇ってくれる者はなく、それが普通だったから、自分の境遇の異常さに長いこと気づかなかった。
自分には意味がない、消えてしまいたい――でも、自殺しようとしても、あと一歩ができなかった。そんなところにも、意気地のなさが現れる。
世間体があったから、高校までは出してくれた。そこは感謝すべきなのかもしれないけれども。
卒業と同時に、家を出て、転々としてきた。
最初に優しくしてくれたのは、バイト先の先輩だった。
男に抱かれるのがあまりにも自然で、ああ、自分はそうなんだと思った。
今でも、好きとか、そういう恋愛感情はわからない。ただ、飲み込まれそうな寂しさから、一時逃れられる。
セックスさえクリアすれば、住むところも食べることも、取り敢えずしのぐことができた。
そんな身の上話を、問われるままにすると、マスターはコーヒーを淹れてくれた。インスタントではなくて、ちゃんとしたドリップの。
少しだけお湯を注ぎ、ゆったりと蒸らす。焦げくさい、でも温かな香りが広がる。
マスターは、少しずつ、丁寧に抽出していく。
昨夜、カクテルを作るマスターの手を見て、すごく、綺麗だと思った。無駄のない、優美な動き。
酔いの回った頭で、それを見ながら、意味もなく幸せな気分だったことを思い出す。
「そういえば、名前聞いてなかったね。教えてくれる?」
ふいに、マスターが訊いた。
「里村 奏太…です」
「俺は、伊藤 数真。伊藤でも数真でもマスターでも、呼びやすい方でいいよ」
「はい」
「で。奏太くんは、普段から恋人に殴られてたの?」
「……はい」
「そっか…」
マスターはしばらく宙を眺めてから、深くため息をついた。
「断ち切らないとね」
「え…?」
「寂しくて、頼りがいがありそうな男と付き合っては、DVされてるんだよね」
端的に言えば、そうだ。
僕はうなずいた。
「まずは、君は自分のことを好きにならないと」
「え……難しい…ていうか、無理…です」
何の取り柄もない、高卒、家なし、フリーター。勉強も大してできず、得意なこともない。
「一番の大本は、そこだよ。君は、ずっと、君を大切にしない人ばかりを引き寄せてるでしょ」
「え…?」
「怒鳴られたり怒られるの、好き?」
首を振る。
「殴られるの、好き?」
首を振る。
「イヤでしょ?」
うなずく。
でも。抜け出したいけど、どうやったら抜け出せるのかわからない。
自分を好きになるとか、無理ゲーだ。
「俺は慈善家でもないし、君の恋人にも、なれないけど」
マスターはそう言うと、目を逸らした。
「1か月だけなら、ここにいていいよ。その間に、君が変わりたいなら、手伝ってあげてもいい」
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