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1週目~一緒にメニューを
マスターの部屋で暮らし始めて、4日目。
朝、いつも通り電車に揺られ、バイト先の家具チェーン店の大型倉庫へと向かう。
顔見知りのスタッフに挨拶しながらミーティングへ向かうと、今朝も膨大な発注リストが届いていた。
チームごとに手渡されたリストを元に、各スタッフが、広い倉庫内を回って商品をピックアップしては、配送先へと仕分けていく。
僕も、床や棚に整然と積まれた商品の山から、リストと商品コードに間違いがないか確認しながら、取り出す。
同じ商品でもサイズ違い、色違いが多く、うっかり見落とすと、お客様に迷惑がかかってしまう。
チェックを終えた商品を、次々と台車に積む。
作業に没頭できるので、この仕事は好きだった。他人とそう関わらずに済むし、嫌なことを考える暇もない。
僕は黙々とノルマをこなし、夕方、仕事を終えた。
電車を乗り継ぎ、マスターの店へと向かう。
途中のスーパーで頼まれていた買い物をして、ダークオークの扉を開けると、開店前なのに、カウンター席に見知らぬ老人が座っていた。
「おかえり」
と、穏やかな声をかけられる。お客さま?…にしては、ちょっと違うような。
「おかえり。早かったね」
マスターはカウンターでグラスを磨いていた。
「…ただいま」
老人へ会釈をしつつ、スーパーの袋をマスターへ渡す。
「ああ、ありがとう。奏太くん、うちのオーナー。ちょうど、君のことを話していたんだよ」
「オーナーの六車です。よろしく」
老人が、僕を見てにこりと目を和らげた。
痩身の白髪。千鳥格子のスラックスに品の良いジャケット。目は穏やかに笑っているようで、何となく自分を推し量られているような気がする。
隙がなく、すっと伸びた背中。老人というよりは、老紳士だ。
お年寄りの年齢はよくわからないが、70歳ぐらいだろうか。
「あの、はじめまして。里村 奏太と言います。マスターのところに1か月、お世話になります」
と、僕は頭を下げた。
「里村くんは、歳はいくつだ?」
「21です」
「ほう……」
オーナーは、ちらりとマスターを見た。マスターはグラスを丁寧に並べている。
「数真は、いくつになった?」
「30になりました」
もう6年か、とオーナーはつぶやいた。
何が『もう』なのか、自分にはわからない。
この店をマスターが引き継いでから……?
…ていうか、マスター、30歳なんだ。
普段はもっと若く見える。仕事用に髪を上げると、カッコいい。……うん。
「数真が食事メニューを少し増やしたい、と言ってるが、里村くんが一緒に考えているのかね?」
「はい。お酒はよくわかりませんが、料理は、結構好き…かもしれません」
「そうか、そうか」
と言って、老紳士は目を細めた。
「わたしはあまり料理は得意ではなかったから、つまみは、カクテルに合うチーズやハムぐらいで、後は乾きもの中心だったな」
「そのチーズとハムが、美味しいと評判だったじゃないですか」
確かに。マスターに少し味見させてもらったけれど、ボロニアソーセージというのが、柔らかくて塩加減が絶妙で、美味しかった。チーズも、カマンベールというのが生乳のやさしい味わいが生きていた。ブルーチーズの臭いは無理だったけど。
「自分のカクテルに合うものを、こだわってあちこち探したからね」
「そのまま、その仕入れ先を使わせてもらってます」
マスターは頭を下げる。
「だが、この店は、もう数真のものだ。メニューを変えるのも、スタッフを増やすのも、わたしに遠慮することはない。好きにしていいんだよ」
「でも、オーナーの店ですから」
マスターの言葉に、老オーナーは、首を振る。
「わたしは箱を持っているだけで、それも、いずれは数真のものになるだろう。オーナーなんて名ばかりで、たまに、こうして老人の話につき合ってくれればいい」
「まだまだ教えて下さい」
「酒については教えられるが、メニューについては、わたしよりも常連のお客様に聞いてみなさい。きっとヒントをくれるよ」
「はい」
オーナーは、ジンフィズをオーダーした。
「テストですか」
「いや。今飲みたい気分なだけだ」
マスターの長い指が、優雅に舞う。
量ってシェーカーに入れる、バースプーンでステアする、シェイクする――流れるようなその動きに、目を奪われる。
炭酸水の弾ける微かな音。レモンの香りがふわりとかすった。
オーナーはグラスに口をつけると、
「まあまあだな」
と笑みを浮かべた。
僕もカウンター内に入り、買って来た野菜の下ごしらえを始めた。使い捨てのビニール手袋をつけ、野菜を洗い、切る。開店後、マスターが一人でもすぐに調理できるように。
「里村くん」
「はい」
「君の事情は、数真から少し聞いたよ。家のことやDVのことを」
「…はい。あの、すみません。ご迷惑おかけします」
「君が謝る必要はない」
「奏太くんが謝ることはない」
オーナーとマスターが同時に言い、思わず、3人で笑った。
「里村くん。何か困ったことがあったら、わたしに連絡をよこしなさい。こんな老人だけど、何か力になれるかもしれないよ」
と言うと、オーナーは、一枚の名刺を僕に手渡した。
「昔、警察官をしていたことがあってね」
「え」
「もし、家族やDV男に何かされたら、躊躇なく、連絡するんだよ」
見上げると、マスターも頷いた。
すごく、心強い。
今まで、助けてくれる人などいなかった。
「ありがとうございます」
僕は深く頭を下げた。
オーナーは立ちあがり、杖をついてゆっくりとドアへと向かった。右足が悪いのか、少し引きずっている。
「いい子を見つけたな、数真」
マスターは、困ったような笑みを浮かべた。
「そうですね」
「里村くん、数真をよろしく頼むよ」
「え?…あ……えっと……」
どうして、自分なんかにマスターを頼むと言われるのかが、一瞬わからなかった。食事メニューを作ること…なのだろうか。
「オーナー、さっきも言いましたが、彼が手伝ってくれるのは、この1か月だけで……」
「そんなことは、まだわからんだろう。なあ、里村くん」
「え……」
「いえ、1か月が期限なので」
マスターがきっぱりと言った。
確かに、そういう約束だった。自分でも納得している。
でも。マスターに改めて言われると、少しつらいのはなぜだろう。
「まあ、そのことは、また今度相談しよう」
じゃあ、と右手を軽く上げて、六車オーナーはドアの向こうへ消えた。
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