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「さ、やってしまおうか」
「はい」
僕は、野菜スティックにつけるディップを準備する。
僕が手伝えるのは1か月だけだから、マスター一人で対応できるメニューを考えなければならない。
あまり凝りすぎてもダメだ。
野菜スティックにつけるディップを増やしたのは、好評だったらしい。
マヨネーズだけだったのを、みそ、明太子、ゆずこしょうの三種類から選べるようにした。マヨネーズに各々を混ぜるだけだが、そのかわり、隠し味にちょっと工夫を加えた。
マスターは、結構料理ができる。最初の朝は、僕が朝食を作ったが、それ以降は、マスターが作ることもある。
マスターの料理は丁寧だ。僕は、大雑把で早い。そして、食材は安いものばかり。
「店の売り上げを考えると、早い安いうまいは大事だよ」
と、言ってくれるけれど。
僕の案を、マスターとあれこれ工夫してメニューに創り上げるのは、とても楽しかった。
そういった楽しさを共有したとしても、僕たちの間には、恋愛感情はない。
恋愛とかセックスと関係ない同居って、こんなに楽なんだ、と初めて知った。
気持ちを勘繰られたり、束縛されることもない。怒られ、殴られることも、無理やりされることもない。
けれども。
安心できるあの部屋から、1か月で出て行かなければならない。
それを考えると、胸の奥にざわりと黒いものが蠢く。いやだ。考えたくない。でも、考えなければならない。
役所に行ったり、ホームレス支援の人に会ったりして、一人で住めるアパートを探し始めていた。
役所からは、ちゃんと家族がいるのだから、そちらを頼れば――と、難色を示された。共働きで収入もある両親が揃っていて、なぜそちらから支援を受けないんだ、と。ごもっとも、なんだけど。
マスターも一緒に行ってくれて、説明をしてくれたが、逆に、マスターという支援者もいるんじゃないか、と言われてしまった。
何だか、僕がいることで、あちこちに迷惑をかけているみたいな気持ちになり、落ち込んだ。
生活保護申請して、実家なんかに連絡された日には、恥さらし、と本気で殺されるかもしれない――それならそれでもいいかとも思ったけれど。あの人達には、もう、二度と関わりたくない、というのが本心だ。
その点、NPOの人は、理解してくれた。やっぱり、家族がいても頼れない人は、たくさんいるらしい。皆、色々な事情があるよね、と。
でも、担当の女性は、マスターとの縁を大事にしたら、と言ってくれた。金銭的な支援じゃなくとも、信頼できる人とつながるのは大事だよ、と。
それが、できればいいんだけれども。
あの時、逸らしたマスターの目には、何か頑ななものが見えた気がした。
『俺は慈善家でもないし、君の恋人にも、なれないけど。……1か月だけなら、ここにいていいよ』
1か月したら、僕との縁は切る、という宣言だ。
もちろん、その後に店を訪れたら、マスターは僕のことを客として対応してくれるだろう。
でも、きっと、今のように親しくはしてくれない――
あれから、マスターとは一度もしていない。
僕自身、自分に誓いを立てた。
どんなに寂しくても、体の関係に頼らない――
こうして、はっきりと言葉にすると、何だか、体の関係に頼ってばかりいたのが、ひどく情けなく感じる。
でも、マスターは、住むところと、僕が変化することを、手伝うと言ってくれた。自分を大切にしろ、と。
屋根のある部屋を確保するためには、自分の体を使うしかなかった僕を、初めて、体なしで、ここにいていいよ、と言ってくれた。
そんな人は、今までいなかった。
そもそも、マスターと僕とは、生活パターンが違う。
僕は朝から夕まで配送センターでバイト。
マスターは、夕から深夜までお店。遅いと明け方に帰り、昼まで寝ている。
僕は、朝には起き出して、一人で朝食を食べて出て行く。余裕があれば、マスターの朝食を用意することもあるけど、そこは、任意で。
バイトの後で、今日のようにスーパーに寄って買い物して、お店へ行く。掃除や仕込みを手伝って、開店直前には、僕は帰る。
ベッドを借りて、眠っていると、明け方にマスターが隣に来る。数時間、一緒に寝るだけだ。ホントに寝るだけ。
一人で寝ている時、ものすごく寂しくなることはある。人肌が恋しくなって、正直マスターに抱かれたいと思うこともある。
でも、ここで、がんばらないとダメなんだ、と思う。
溜まった時は、マスターがいない間に自分で処理して。
できるだけ、普通に、毎日を過ごす。その練習なんだ。
それでも、どうしても寂しい時は、朝の薄暮の中、こっそりマスターの寝顔を見ていた。
誰かが傍にいてくれる温かさ。
もう少ししたら、失ってしまうけれども。
記憶の中に、この温かさを絶対に大切に持っていよう、と思った。
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