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2週目~美術館の休日
マスターと同居し始めて2週目。
僕の仕事が休みの朝、いつもよりのんびりと朝食を用意し、ゆっくり食べていると、マスターが、突然「今日、美術館へ行こうか」と言い出した。
フライパンで焼いたチーズたっぷりのホットサンドにかぶりついていた僕は、舌をやけどしそうになり、慌てて冷たいオレンジジュースを飲む。
「……何で、美術館ですか?」
「奏太くんは、行ったことある?」
「え……」
小学校の行事で行ったような、でも、ぞろぞろついて行っただけで、何を見たかもよく覚えていない。
「小学校で行った…かも。あんまり覚えてないですけど」
「じゃあ、今日の午後、行こうか。その帰りに買い物して、直接店に行くようにしよう」
マスターは、まるで近所に散歩へ行くぐらいの気軽さで言うと、ハッシュドポテトに目玉焼きの黄身を絡めた。
最初に作ってから、何度かリクエストされているハッシュドポテト。
かりかりベーコンか、ぱりっと焼いたソーセージを添えるのが、マスターの好みだ。
「上野だから、ついでに動物園でパンダも見ようか」
「えっと……何で?」
「いい天気だから」
当然のような返事に、僕は何と答えたらいいか、わからない。
上野には美術館や動物園があるのは知ってたけれど、僕には、今まで全く関わりのない場所だった。
うちの他の家族は行ったことがあるかもしれないが、そういうお出かけ時、大抵僕は一人、家に置いてかれた。諸々の家事を『やっとけよ』と言われて。
家族の帰宅後、掃除の拭き残しがあるとか、茶碗にご飯のかけらが僅かにこびりついているとか、何か少しでも粗が見つかると、親に容赦なく叩かれた。
それが普通だった。
「絵なんて、見たってわからないですよ」
「見るだけでいいんだよ。詳しい解説を聞きたければ、イヤホンの貸し出しがあるし、いらなければ、ただ好きだな、と思う絵を見ていればいい」
正直、絵なんて全然興味ないし、見ても退屈なだけじゃないか、と思った。
でも、せっかく誘ってくれたのに、拒否するのは申し訳ないし、もったいない――以前だったら、相手の言うことに合わせなければ、と即座に自動的にうなずいていただろう。
でも今は、そうじゃない。
先を歩くマスターが、行ってみようよ、と誘ってくれるのならば、まずは試してみたい。行ってみたら、何か見つかるかもしれない。
僕を変える何かが。
◇
秋の明るい午後。
上野駅から、国立西洋美術館へ。
前庭のロダンの考える人とか有名な彫刻を見て、中へ入る。
マスターの見方は確かに、自由だった。
順路通りには行くけれど、あまり興味なさそうなところはさっさと通り過ぎ、好きだと思う絵の前には、じーっと立って動かない。
きれいな夕暮れの空の絵。外国の田舎の並木道の絵。
僕は何しろ、美術館なんて来たことがないから、マスターの後ろにくっついて、同じように見ていた。
だんだん、あ、この淡い空の色、好きだな、とか、ちっちゃな白い点が光をあらわしていて、本当に光って見える、とか、小さな発見が楽しくなってきた。
その内、マスターに合わせようとしなくても、マスターと自分が立ち止まる絵が、だんだん一緒になってきた。
あまり人物画には止まらない。人が描かれていたとしても、風景がメインの絵が多かった。
そのうちの一つの絵で、マスターは止まった。
曇天の下、荒ぶる海の絵だった。
青じゃなくて、緑色に近い高波。今まさに岩場へと白い波頭が砕け散る寸前の。
穏やかな夕暮れの絵とか、そういう柔らかなタッチの絵が好きなのかと思っていたけれども、一番長く立ち止まる絵がこんなに荒々しく寂しい風景とは、思っていなかった。
「マスター、この絵、好きなんですか?」
小声で訊いたけれども、マスターからの返答はなかった。見上げると、絵の中に入り込んでいるのか、気づいていないようだった。
それ以上、声をかけるのはやめて、僕はそっとその場を離れた。
◇
美術館のカフェで一休みしてから外へ出ると、夕暮れの穏やかな陽の光に、黄色の銀杏の葉がひらりひらりと舞っていた。
足元の黄色の葉を一つ、手に取る。少し潮の香りがした。
ふと、高校の生物の授業を思い出した――なぜ秋になると、樹木の葉が散るのか。
夏の間、光合成を盛んに行っていた樹木の葉は、秋になると大切な成分を根へ移し、やがて、葉と枝との間に離層という剥がれやすくする組織を作る。
枝と遮断されたことで葉の中の成分が変化し、赤や黄に色を変え、風などのちょっとした力で、離層から簡単に剥がれ落ちていく。
自分の体から、いらないものを潔く捨て去るそのしくみに、かなり衝撃を受けた。
あと2週と少ししたら、僕は、マスターの部屋から出て行く。
そういう約束だから。
マスターは多くを語らないけれども、僕が変わる手伝いをしてくれている。店のメニューを一緒に考えたり、こうして、突然美術館へ来たのも、きっとそうなのだろう。
確かに、美術館は浮き立つように楽しいところではなかったけれども、意外と僕に合う場所だと思った。静かに、絵と向き合うのは、心地よい。
中には、あまり興味が持てなかったり、意味がわからない絵もあったけど、もしかしたら、次に来た時は面白いと思うかもしれない。
そう。次にまた来たい、と思った。
きっと、今度は一人だと思うけれど。
大切なことを、少しずつ、教えてくれる人。
無理やり押しつけたり、上から言うのではなく。
それは、僕の人生で、初めての経験だった。
じわりじわりと自分の心に、マスターが入り込んで来るのを止められない。
この銀杏の黄色い葉のように、約束の日が来るまでに離層を作って、きれいに剥がれ落ちるようにしなければ。
そう、思っているのに。
激しい海の絵と、一人向き合うマスターの心の中を知りたい、と思ってしまった。
そんな自分の心に、怯える。
自分から離れたくないと思えた初めての人との別れを考えるのは、ものすごく怖い。
もしかしたら、別れの日までにちゃんと離層を作ることができず、いつまでも治らない傷のかさぶたのように、剥がそうとした途端に、鮮やかな血が吹き出してしまうかもしれない。
それでも、約束の日には、僕は出て行かなければならない。
今まで、どんなに深い傷を負っても、何とかこうして生きて来た。
積極的に生きたいと思ったわけじゃなくて、消極的に死ぬ道を選べなかった情けない結果だけれど。
きっと、マスターのことも、いつかは微かな傷跡を残すだけで、治ってしまうのかもしれない。が。
そこまで続く、果てしない日々を思うと、しんどい。
「どうした?」
遅れて歩く僕の方へと振り返り、マスターが僕の頭をくしゃりと撫でた。
骨ばった長い指。大きな手。
絶対に忘れたくない。
胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられた。
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