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3週目~波立つ
3週目に入った月曜日。
配送センターのバイトの同僚が、用事があるので来週の休みを変わってもらえないか、と声をかけてきた。
特に何の用事もない僕は、「いいよ」と応じた。元々のシフトと合わせると、連休になる。こちらの方が、ラッキーだった。
スマホのカレンダーに書き込みながら、ふと、気づいた。
店の定休日と、重なる。
少しの期待。
また、マスターと一緒に出かけたり、ゆっくり過ごせるといいな――いつしか、そんな甘えた考えが自然に浮かぶようになっていた。
だめだ。マスターに負担をかけ過ぎてはいけない。
自重しようと思う端から、一緒にいられる時間が増えるうれしさがふわりと湧いて、勝手に口角が上がった。
帰りの電車は、そこそこ混んでいて、僕はドア付近の手すりにもたれるように立っていた。
夕暮れが早くなった。西の空低くが橙色に染まり、天上に向かって伸びた飛行機雲が、風に流され、群青色の宵の空へ広がり溶けていく。
ポケットに入れていたスマホが震えた。
NPO団体の人からのメッセージだ。タップする。
『アパート、見つかりました』
その一文が目に入った瞬間、猫の毛を逆立てるようなざわりとした嫌な感覚が、足先から背中へと這い上がる。
ついに、来た。
本来であれば喜ばしいはずの知らせが、まるで、死刑宣告のようだ。
1か月しかいられないことは、わかっていたはずなのに。
行き先が決まらないうちは、何となく、このままでいられるような気がしていた。
僅かな望みは断たれた。
もう、逃げられない。
『入居は来月からなので、今月いっぱいは伊藤さんのところで、大丈夫ですか』
『はい。たぶん大丈夫です。よろしくお願いします』
『保証人は伊藤さんに頼めますか? それともこちらの団体にしますか?』
以前NPOの人からは、マスターとのつながりは切らない方がいいと言われた。確かにマスターなら、保証人もいいよ、と言ってくれるかもしれない。
が。そんなことは頼みたくない。
以前見た銀杏の葉のように、僕はマスターから、きれいに離れなければならない。
『NPOさんで、お願いします』
今週を過ぎたら、同居生活も最後の週に入る。
ラストまでのカウントダウンが始まる。
焦燥、孤独、不安――
元々自分にとって身近だったそれらが、今はひどく堪える。
温かさを知ることは、幸せでもあり、ある意味残酷だ。僕は、一擦りして灯ったマッチの炎が見せてくれる幻覚に、どっぷりと浸かり過ぎてしまったのかもしれない。
ふっと消えた後の、魂まで吸い取られてしまうような暗闇が、すぐそこで口を開いて待っている。
足元が崩れ落ちるような、得も言えぬ感覚に襲われ、僕は電車の手すりにもたれながら、自分で自分の腕にしがみついた。
◇
昨夜、割と早い時刻に帰って来たマスターは、珍しく僕と一緒に起きた。
久しぶりに一緒に朝食を作る。僕は、目玉焼き。マスターはサラダのレタスをちぎる。
フライパンに卵を割り入れながら、僕は、
「マスター。アパート、決まりました」
と、軽い感じで言った。
「えっ…。ああ、そうなんだ」
「昨日、NPOの人から連絡が来て、来月から入居できるそうです。……なので、約束通り、今月いっぱい、ここにいていいですか?」
ずっと、頭で反復していたセリフを一気に言う。何の感情の色もつけずに言えて、心の端でほっとする。
「…ああ。もちろん。その約束だからね」
「ありがとうございます」
2個目の卵は、黄身が崩れた。ぐしゃ。
僕の中の、何かも。ぐしゃ。
でも、気づかないふりをした。
「あ、あと。今度のお店の定休日なんですけど、僕も休みになったんです。同僚に替わってくれって言われて。その日って、何か予定ありますか?」
「ないよ。…じゃあ、またどこか、出かけようか?」
「お店のメニューの参考になるようなところに、行けたらな、と」
「奏太くんの考えてくれたメニュー、作りやすいし、お客さんの評判も良くて、助かっているよ」
「そう言ってもらえると…すごく、うれしいです」
僕でも役に立てる、と思えることが、こんなにもうれしいことだと、マスターに教えてもらった。
それに。僕がいなくなっても、メニューは残る。マスターのところに。
……何なんだよ、この思考は。
変に湿っぽくって、いつも胸の奥がじくじくと痛んで、苦しい。
「メニューと関係なくていいから、どこか奏太くんが行きたいところは、ない?」
「え……」
考えても…何も出てこない。
映画…とか?
でも、今それほど、観たいものはない。
「旅行って、どうかな」
マスターの言葉にびっくりする。
「旅行!? …て、どこへ?」
「意外と直前って、宿が安くなってたりするんだよね。季節もいいし。ちょっと遠出しようか」
「え……宿って……」
マスターは、すぐにスマホで調べ始める。
「あ、ここなんていいんじゃないかな。料理自慢って書いてあるし。きっと料理の勉強にもなると思うよ」
「え……」
旅行なんて、全然行ったことがない。
というか、まだ、話しの流れに、全くついて行けてない。
「もしかして、行きたくない?」
「いえ…そうじゃなくて。僕、旅行とかって、ほとんど行ったことがないんで……」
「じゃあ、なおさら行こう。宿代はいいよ。たくさんメニューを考えてくれたお礼もしたかったからね」
「そんなこと言ったら、ここに住まわせてもらってるのに…」
「いいから。一泊して、次の日早めに帰ってこよう」
「え。いいんですか」
「たまには、いいよ」
隣のマスターを見上げると、目が合った。
何だろう、その表情は。
少し眇めたまなざしが、僕を一瞬掴んで。そして、ふっと逸らされた。
いつまでも、胸が、じくじくと痛い。
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