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夕方、仕事帰りに、スーパーの野菜コーナーできゅうりを選ぶ。
今日は5本入り袋の特売があった。野菜スティックは好評のようだし、こっちにしよう。確かにんじんも少なくなってたはず。
マスターの店は、ダイニングバーではない。
あくまで、お酒がメインで、ちょっと食べたい人用のメニューを少し増やしただけだから、それほどたくさんの食材はいらない。
後は、自宅用のものを少し買ったら、おしまいだ。
持参の買い物袋に商品を詰めて外へ出ると、もう外は真っ暗だった。
秋の日は落ちるのが早い。あれ、と思うともう日が暮れている。1週間ごと、季節が進んでいることを知らされる。
西の空にひと際きらめくように、金星が輝いていた。
駅から続く道は、保育園帰りの小さな子の手を引いたお母さんや、部活帰りの中学生、スマホを見る女性やサラリーマンが、皆、少しうつむいて足早に行く。
安心できる行先がある幸せ。待ってる人がいて、「おかえり」と言ってくれる幸せ――マスターが教えてくれたもの。
きっと、たくさんの人にとっては、当たり前にある普通のことが、僕にとっては、初めて経験する”普通”だった。それは、小学校の夏の日に、プールの底から見上げた太陽のように、遠く揺らめいて、手の届かないはずのものだった。
あともう少しの期限つきの幸せだから、宝物のように大切にしたいと思う。
踏切を超えると、人はまばらになっていく。
駅から続く繁華街を通る幹線道路から一歩入った、住宅地に向かう道沿いに店はあった。
白い漆喰の壁に、ダークオークの扉。
まだ開店時間前だから、看板に明かりは灯っていない。
ドアに手をかけて入ろうとした、その時だった。
ぐい、っと左手首を強く掴まれた。
「奏太、見つけたぞ」
獲物を見つけた悦びが滲み出ている、聞き覚えのある冷酷な声に、自分ののどが、ひゅっと鳴って、息が詰まった。
一瞬で口がからからに乾き、全身が震えだす。
骨を軋ませながら、ゆっくり振り返ると。
ついこの前まで、一緒に暮らしていた、
日常、僕を、殴っていた、岩倉がいた。
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