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兄弟の道
アラード地の最奥。すみっこの、何も無い地。東西は聳え立つ山に囲まれ、狭い陸地にはかつて繁盛していたであろう大きな建物が、寂れた廃墟となって連なっている。どれもこれも、立ち入り禁止。売り払い。閉店。危険。×。張り紙ばかりで、どこかの建物に付いていたであろう紙の切れ端が時折寒い風に飛ばされている。
「……」
ディスタはその一つ一つに目を向ける事無く、誰もいない地を進む。陽は少し前に落ちたが、もう目と鼻の先だと思うと、ディスタは歯を鳴らしながら足を急かせる。
兄は、リトはもう着いているのだろうか。
そもそも生きているのだろうか。
少年が人を見かけなくなってもう三日は経っていた。最後に出会い、殺した三人の男女の家を出てから、ディスタは一心に歩き続け、とうとう目的の地まで来たのだ。やがて、一番賑わっていたはずの廃墟の町の果て。途中から大きな看板がいくつも立ち、オーロラの地と示していた。大きな塀が見え始め、近づいて来ると、入り口には何重にもロープが巻かれ、”立ち入り禁止”と吊るされていた。
少年はそれを見て、ロープの下をくぐりオーロラの地へと足を踏み入れる。
「……!」
ディスタは白い息を吐く。塀一枚の向こうは、何も無い大きな空が広がっていた。
東西の山は急に先細り、地の端の海は凪ぎ、全てが星空だけを彩るように鳴りを潜めている。オーロラが見られればそれはとてつもなく綺麗だったのだろうと、見えない空に少年はどこか悔しく感じた。リュックを下ろし、軽くなった肩を大きく逸らして、空を一望する。
唯一邪魔だとすれば、立ち入り禁止だのもう一度オーロラをだのと書かれた看板がそこら中にあるくらいで、そこでようやくディスタは気が付いた。
「遅かったね。久しぶり」
振り返った少年に、ディスタは思わず口を開けた。
看板に隠れるようにもたれ、座っていたリトは揃いの茶色コートを躍らせて立ち上がると、久しぶりの弟の手を引く。
「看板の向こうで見た方が、もっと綺麗だよ」
リトはそのまま弟を引き連れると、看板の向こうへ、本当に何も無い地の空へと立つ。二人はしばし空を見続け、白い息を上空へ上らせた。
「……、……リト、肩」
「え?ああ、うん。ちょっとね」
リトは包帯を巻いた左肩を少し上げ、はは、と笑う。
「これ以上は上がらないんだ。結構痛い」
「また何かやっただろ」
「これはちゃんと約束を守ったんだよ」
兄弟は互いを見合った。黒い瞳と黄色い瞳が交差し、瞬きをする。
「約束。ディスタは守れた?」
「……俺、は……」
ディスタは自分の懐を撫でた。ナイフの柄触れ、そのまま引き抜く。付いたままの赤い血が乾いて割れていた。
「守ったよ。約束通り、自分の為に、好きに生きた。……あんたに倣って」
そう。とリトは目を伏せた。リトは?と聞かれ、同じように懐を、コートの内側からナイフを取り出す。
刀身は、真っ赤に染まっていた。
「守ってた……つもり。……分からないな。最期は……。……人の為に、生きてたつもりなんだけど」
そうか。とディスタが返す。あのね。とリトが声を続けた。
「僕も、君に倣ったんだ。……困ってそうな人がいれば、声を掛けて。損得とか、そういうの関係無く、誰かの為に動いて。迷子に声を掛けたり、間に合わない荷物を運んだり、店の手伝いとか、道の清掃とか、見たもの全部」
「ああ」
「最後の町では、悪い組合から町の人を逃がす手伝いもした。……人を庇って、自分が馬車から落ちちゃったけど。でも、体が勝手に動いた。……その後、……、残った組合の人を、全員殺した。……それが人の為だったのか、ただしたかったのかは分からない」
「ああ」
リトは、ナイフを見て、それから顔を上げる。
「楽しかったよ。全部。ディスタが人の為にって言っていた事が、分かった気がする。誰かにお礼を言われて、誰も傷つける事がなくて。体が勝手に動くくらい……楽しかった。全部全部、楽しかった」
「そうか。よかった」
「ディスタは?」
リトはナイフの刃先を向け、ディスタの持つナイフへと当てる。乾いた音がして、血の糊が少しだけどこかへ飛んでいった。それは何も無い北の地の向こうの、海の空までも飛んでいったのだろう。
「……楽しかった」
「うん」
「……苛立ちとか、興味とか、金とか、全部押し付けてくる目に、ナイフを突き立てるのが、今までに無いくらい心地よかった。俺が好きに向けたナイフで泣いて、叫んで、……ふっと命が静かになって。今まで黙っていたもの全てを叫んでいるみたいで、全部全部、楽しかった」
「そっか。よかった」
はは、とリトは笑い、北の方へと数歩駆け出す。
「ねえ、どうせなら海を見ようよ。きっと綺麗だ」
「……ああ、そうだな」
少年二人はナイフを持ったまま、北の地の果てまで走る。目と鼻の先に見えたはずの海は、完全に陽の落ちた夜の中では形を留めておらず、空の中を走るように、いくら走ろうとまるで辿り着かない。二人が息を切らし、膝に手を突く。冷たい風が笑うように兄弟を撫でた。
「はっ、……はぁ……遠い……」
「思ったより、遠い……」
「ちょっ、……ちょっと、歩く……?」
「だな……」
顔を見合わせ、兄弟は笑う。冷えた地面はざくざくと鳴り、恐らく薄い足跡を残している。ふとリトが振り返れば、もう看板も、リュックも、塀も、夜の中に紛れて見えなくなっていた。今北の地にあるのは、冷たい風と、小さな星と、兄弟だけだ。
「……なあ、これから、どうしようか」
「……どうしようね」
「俺は、……お前に普通に生きてほしくて、変わってほしくて、旅を始めた」
「僕も同じだ。……ディスタに自由に生きてほしくて、旅を始めた」
リトは少し速足で、ディスタの前にくるりと躍り出る。そのまま後ろ向きに歩けば、転ばないようにと、バランスを保つ手をディスタが握った。
「変われたね。僕達。どうしようか?」
「何か、したい事があるのか?」
兄が足を止めた。すると弟も倣って足を止める。ううん。と首を振り、リトは首を傾げる。それから楽しそうに両手を広げた。
「二人で、人を助ける組合でも作ろうか?それとも、凶悪犯にでも?はは、僕らどっちだってなれるんだよ」
「ハハ、そうだな」
ディスタは笑って、それから口元を歪めた。
「分かってるだろ、それじゃ駄目なんだ」
リトの胸に、ナイフが突き刺さる。
「……ゴホッ」
リトは口から血を零した。手に掬われることも無かった液体は、リトの靴と地面へ、夜の中へ消えて行く。リトは膝が完全に崩れる前に、ディスタに寄りかかる。ディスタは振り払う事なく、兄弟を抱きしめるように支えた。ディスタの肩が黒く染まる。震えた声が、冷たい風より早くリトの耳元へ届く。
「俺は、リトに変わってほしかった。そうじゃなくても、俺も、リトの気持ちが分かれば……俺が変われれば、俺が変えられるんじゃないかと思っていたんだ。……ただ、お前に、普通に生きてほしかった」
「……うん」
「でも、駄目だった。変わってしまった。……分かってしまった。楽しかった。楽しかったんだよ。人の叫ぶ声が、歪む顔が、ただの肉になる瞬間が。……でも、駄目なんだよ、駄目な事だって分かるんだよ。だって今まで、ずっと止めてきたんだ。お前を、リトを。これは駄目な事なんだ。だから、」
「うん」
「僕も、そう思ったんだ」
ディスタの背中に、ナイフが突き刺さった。
ディスタの口から零れた血は、リトのコートを黒く染めた。歪んでいた口元が、ふっと軽くなり、笑い声が零れ落ちる。
「……ハハッ」
「はは、ははは」
「ハハハハッ、ハハ」
「はははははっ」
兄弟は楽しそうに笑い合った。もう遠い宇宙の果ての星しか見えない北の地で、二つのよく似た笑い声だけが響く。少年達は顔を合わせると、互いの瞳が半分に、やがて完全に閉じられるまで、ただ笑い合った。
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