羊の群れのリバーシ

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 翌朝、都古は朦朧とする頭で仕事に向かった。頭が上手く働いていない。また杉並に嫌味を言われたが、何を言われたかも覚えていない。気付けば昼休憩になっていた。午前中何をしていたのか? 記憶が煙に巻かれたように霞んでいる。何も食べる気になれず事務所の机にうつ伏せになり、休憩が終わるのを待った。  休憩から戻ったスタッフのガヤガヤとした話し声で、都古は起き上がり活動を再開した。ふらつく足取りも幾分かマシになった気がする。明らかに不調であっても誰も帰れとも言わないし、声すら掛けてこないんだな、この店は。  ああそうだ品出し。品出しをしなければ。品出しをしようと決めてしまえば後は早い。ルーティンで手を動かすだけでいつかは仕事が終わる。  目的の売り場へ向かう途中、ちょうど目の高さの辺りに、肉の入ったパックが置いてあった。反射的に手を伸ばし、いつもの言葉が口につき——。 「ちょっと! 今何て言ったの!?」  瞬間、死角になっていた場所から人が現れ、都古は目を剥く。一気に目が覚めた。 「この人、殺すって言いました! 私に向かって!」 「いえ、あの……」  口に出ているとは、まさか周りに人がいるとは。何も考えていなかった。 「言い訳するの? 今確かに聞いたのよ、ぶっ殺すって」 「それは……」  口に出した覚えがなくとも、聞こえていたということは口にしていたということなので、否定のしようもない。 「否定できないんじゃない! やっぱり私のことなんでしょ! 周りに他に人がいないんだからそうに決まってる!」  女が喚き立てている。異変に気付いた杉並がこちらにやってくるのが目に入った。  ああ、終わったな。  都古は目の前の事象を切り離し、意識の外へと締め出した。あーあ。仕事もクビか。正社員で就職したけどろくなことなかったな。接客なんてしたくなかったし。希望の部署にも就けなかったし。残業も多かったし。別に未練なんかはないんだけれど。  住宅ローン、まだキャンセルできるだろうか。共働きだから審査が降りたんだろうに。尚也の稼ぎだけでローンを返していけるだろうか。尚也だって職場に復帰できるか怪しいのに。新しい仕事を探さないと。「客に殺すと言った女」の、黒い羊のレッテルを貼られて、パートの仕事だってできるか怪しい。もう転居しなくて済むと言うのは、ある意味不自由だ。一度でも人間関係が破綻してしまえば二度と取返しがつかない。もうこの群れのどこにも居場所がないのだ。  頭を下げ続けると、背中から墨汁を掛けられたように、毛皮が黒く、黒く染められていく感覚がした。
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