ボン・ブーランジェリー

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「それって、私がハネムーン候補の一つに挙げたパリ旅行を、スリが多くて治安が不安だってボツにした旅行よね。本当は、それが原因なの?」  僕は深く頷いた。 「君と出会う前のことだ。パリの一人旅行で、僕がパン屋を訪れたのは、爆発が起きた前日だったんだ。爆発が起きたとき、僕はもう飛行機の中だったから、帰国直後にニュースで知ったんだよ。驚くっていうより、なんか信じられなくて。全然実感とかなくてね」 「そう」 「実は、この話って、もう二年も経つんだよ。だけど未だに、パン屋はあるんじゃないかとか、再開してるんじゃないかとか、時々調べたりしてるんだ。でもグーグル地図を見たりするとね、グーグルストリートビューも更新されて、工事中の衝立が出来てた。剥がれた看板のあとが痛々しかったよ。多分、パン屋は復活しないと思う。そしてこの話を、誰かに話したこともないんだ」 「そうだったの」 「どんなに最高に美味しい店だったという感動を語っても、もう誰かに感動を体験してもらうことはできないからね」  携帯に残された写真の数々は、人に自慢したくなるほど素晴らしい店だった。パン屋ごときで感動するのかって思う人もいるかもしれないが、僕には本当に今まで味わったことない小麦の味だったのだ。 「僕にとっては本当に最高な店だった。粉々に無くなってしまっても、ずっと僕の心にはまだあのパン屋があるんだ。普通に存在していて、今日も営業している。いつか誰かとまた来たいと思わせてくれる。だから、今でもまだ現実に存在していたら、君を連れて行って、あれこれパンを摘みながら食べている。でも連れて行けない。そればかりか、あの土地に今行ったら、無くなった店を目の前にしたら、多分、僕は」  彼女を真っ直ぐ見ていられなかった。  急に込み上げた涙が溢れてくるのを感じたからだ。  月日が経っても、鮮やかに蘇る。美味しいと感じた瞬間の出来事や記憶が昨日の事のように思えた。  焼き立てのパンが敷き詰められたショーケースには、食べきれないパンが沢山あった。それらは次に来たときの楽しみでもあった。撮影に応じてくれた、あのときの店員さんが写っている写真もアルバムの中で、笑顔のままだ。  彼女はハンカチをそっと出してくれた。僕はありがたく受け取って涙を拭った。  頭では写真も動画も消してしまえば良いと思っても、心が消すことを躊躇わせる。行き場のないデータをどうすべきか、僕はずっと前から保留にしたままなのだ。  店を出た。  駐車場はガランとしていた。  天を仰げば、まだ曇り空のまま。  彼女は僕の手を引いて、こう言った。 「生きていてくれて良かった。それだけで十分よ」 了
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