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黒い渦が消えると、オレと爺さんは再び宿屋に戻ってきていた。
「早速だが、先ほども言ったように、我が息子をお主に預かってもらいたい」
「預かるといっても……そんなにとてつもない魔力を秘めたご子息を私のようなしがない村の宿屋の店主に預けるというのは、何か事情があるのですか?」
魔王が不意に咳き込む。その口に当てた手を広げると、吐き出された血で掌が染まっていた。
「見ての通り、私の体は病魔に侵されている。魔王といえど肉体を蝕む不治の病には勝てないということだ。おそらく私は近く我が城を訪れる伝説の勇者と一戦を交えて敗れ、この世界から消えて無くなることだろう」
オレは黙って頷いた。
続けて魔王は言った。
「だが、我が子孫が途絶えぬ限り、魔族は決して滅びぬ。だから、私はこの子をお主に預け、私の代わりに育ててもらいたいのだ」
「いやー、その、何度も言いますが、こんな名もない小さな村の宿屋に預けるよりも、 もっとふさわしい育ての親が他にいくらでもいるのではないかと。たとえば、大魔法使いや大賢者とか、あるいは魔王様配下の有望な中ボスクラスのモンスターのどなたかとか……」
魔王はきっぱりと首を左右に振る。
「それでは困るのだ」
「何がです?」
「能力のある高名な者の下に預ければ、我が子の素性は瞬く間に明らかになり、魔王の子孫を根絶やしにしようと目論む勇者達の一行、もしくは謀反の念を抱いた魔物達により殺されてしまうことだろう」
「なるほど、天敵の目から我が子を守るために、あえて私のような何の特殊能力も体力もないごく平凡な人間の下に預けることにしたわけですね」
「……それに、お主はただの宿屋の店主ではなかろう」
爺さんがニヤリと犬歯を剥き出して笑う。
「な、何のことです?」
「先ほど、机の上に広げた城下町の地図を熱心に眺めて何を企んでいた? 今宵はどこの屋敷に盗みに入るか、その後はどうやって逃走するかと頭を悩ませていたのだろう。お主が宿屋を経営する傍ら、夜な夜な貴族の館に金品を盗みに入っているコソ泥であることを悪の化身であるこのワシが見抜けぬとでも思ったのか」
「じゃ、じゃあ、あなたはそれを知っていてオレの宿に客を装って泊まりに?」
魔王は「ふぉっふぉっ」と高笑いしつつ頷く。
「表向きは平凡な村人を装いつつ、我が子を悪の道へと導くのにお主ほど適任な者もおらぬと思ってな」
「もしも、この依頼というか命令を断ったら?」
魔王はその赤い瞳をキラリと輝かせると闇の炎を上げる掌をオレに向ける。
「この場でお主を殺して、代わりを探すだけだ」
オレは速やかに魔王から赤ん坊を受け取ると精一杯の情熱と愛情を注いで育てることを誓った。それ以外に選択の余地などなかった。
「では、ここに正式な契約を交わそう」
「契約?」
魔王が指で虚空を弾く。宙に湧いた黒い煙の中から一枚の羊皮紙がひらりと舞い落ちた。手に取って俺の目の前に差し出す。見たこともない文字がびっしりと書かれていた。どうやら契約書らしい。
「さあ、ここにお主の血でサインするのだ」
契約書の一番下の余白を指さすと、爺さんはご丁寧にその鋭くとがった爪の先でオレの人差し指の腹を浅く切った。見事な手さばきに微かな痛みすらない。
オレは指先から流れる血で自らの名を書いた。
「これで契約は成立した。もしもお主がこの契約を反故にする、つまり、我が子の育児を放棄したり、勇者達に売り渡したりした場合はお主の命だけではなく、この村の者達すべての命はなきものと思え」
まさかオレだけではなくこの村で暮らす者達すべての命が人質にとられる契約だとは知らなかった。だが、もう手遅れだった。
契約書を交わすときはそこに何が書かれているのかを注意深く読まなくてはならない。魔王と契約する際は特に。といってもこの場合、契約書に何が書いてあるのかまったく読めなかったわけだが。
契約書を手に絶句するオレに爺さんが朗らかに笑いかける。
「ワシが勇者どもを打ち滅ぼし、世界をこの手にした暁にはお主に世界の半分をくれてやろう。悪の根を絶やしてはならぬ。我が子を頼んだぞ」
そう言って魔王は闇の衣を翻し、オレの前から姿を消した。
こうしてオレはひょんなことから魔王の子を預かり、自らの息子として育てることになった。
結局、オレが世界の半分をもらうという約束が果たされることはなかった。
子供をオレに預けてすぐに魔王が死んでしまったから。
病死ではない。
伝説の勇者の一行が魔王を倒し、世界に平和をもたらしたのだ。
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