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「ああーきちゃった、きちゃった」
泉美は放り投げるように靴を脱ぎ、狭い廊下を走った。
ドア越しに響く雷。ベランダからざぁざぁと激しい音が聞こえてくる。
慌てて窓を開ければ、既に手遅れと思える洗濯物達が力なく竿にぶら下がっていた。
「次の晴れまで干しっぱなしにしときゃいいじゃん」
だらしない友人の言葉がよぎる。
部屋に入れておけば何とかなるか。
掛けられるところ全てにそれらを吊るし、コートを脱いでようやくシャワーを浴びた。
あ、傘……。
深夜にかけて強風になるって言っていたっけ。
まだ外廊下の窓枠に引っ掛けたままだ。飛ばされでもしたら厄介なことになる。
せっかく着替えたのに。
響く雷鳴を気にしながら、泉美はしぶしぶドアを開け、
悲鳴を上げて尻もちをついた。
目の前に、長い髪、びしょ濡れの女が裸足で立っている。
「道、教えてください……」
「あ、あの、道?」
唾を呑み込み、下駄箱の助けを借りて立ち上がる。
「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってください。傘、しまいますんで」
口の中でごにょごにょ言いながら、精一杯腕をのばしてもぎ取るように傘を引き抜いた。
笑ってそれを見せ、
待っててとドアを閉めようと。
「ひっ!」
女ががしりとノブを掴んだのだ。
壁に足をつき、叫びながら力の限りドアを引き戻し、閉めた。
鍵を掛けながら全身が震え、息が整わない。
「道を教えてくださいっ、道を教えてくださいっ」
ガチャガチャ、ガチャガチャ
ドアノブが回され続けている。
「ごめんなさいっ、今、手がはなせないんですっ!」
ノブが止まった。
がたんがたん! がたんがたん!
激しくドアが前後した。
「ごめんなさいごめんなさいほんとにっ! ほんとに傘がびちょびちょであちこち濡れちゃって手がはなせないんですっ! お隣で、お隣で聞いてくださいっ!」
ドアが止まった。
荒い呼吸を片手で押え、泉美は携帯を握った。
とてもドアのレンズを覗ける勇気は無い。
十だ。
十数えたら確かめる。その時まだ居たら通報を。
十、九、八、七、六、五、四、三、二、一!
飛び上がってレンズを見る。
いた! ちゃんと隣の部屋の前に。
ブザーを押している。
隣のドアがかちゃりと開いた。
「よ、よかった‥‥‥」
へなりと玄関に座り込む。
「ああ、それだったらお隣よ」
人の好さそうなお婆さんの声が聞こえた。
戻ってくる!
立ち上がり、震えながら携帯を構えた。
が、女は通り越して左の扉へ歩いて行く。
左のドアが開いた。
「ああ、それなら隣だよ」
人の好さそうなお爺さんが、こちらを向いてにこりと笑った。
どぐん!
ドアにもたれた泉美の頭が大きく揺れる。
ドアの向こうで女が言った。
「あの時の傘、お返しします」
強い風で女の前髪が分かれた。
稲妻が照らしたその白い額には、深くまあるい穴が空いていた。
ひりつく喉。泉美は掠れた声を絞り出す。
「盗られたんだと思っていたの‥‥‥。お気に入りだったのにって」
今日と同じように、強い雨風の吹いたあの日。
なぜ、しまい忘れてしまったんだろう‥‥‥
泉美の目から涙が流れる。
「ごめん‥‥‥なさい」
女は頷き、静かに消えていった。
泉美は立ち直れない。
ドアの外から返された傘が、
彼女の眉間を貫いていたから。
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